キャリア&転職研究室|魂の仕事人|第36回 防災科学技術研究所 理事長 岡田義光-その3-さらに進化…

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第36回
岡田義光氏インタビュー(その3/全5回

岡田義光氏

阪神大震災でバッシング
さらに進化させたオカダモデルで
世界規模の災害対策に貢献

独立行政法人 防災科学技術研究所 理事長岡田 義光

留学後、「オカダモデル」が実証され、研究者として大きな喜びに打ち震えたが、同時につらい現実も待ち受けていた。第3回では、苦しい時期をどう過ごしたのか、そしてその後の飛躍などを語ってもらった。

おかだ・よしみつ

世界的な地球物理学研究者。専門は地震学及び地殻変動論。1945年東京都生まれ。東京大学理学部地球物理学科を卒業後、東京大学大学院地震研究室へ。理学系研究科修士課程修了後、70年に東京大学地震研究所に助手として就職。80年に理学博士号取得。10年間勤務後、先輩の勧めで国立防災科学技術センターへ転職。第2研究部地殻力学研究室長、防災科学技術研究所地震予知研究センター長、同地震調査研究センター長、同企画部長等を経て、2006年に理事長に就任。地震予知連絡会副会長や地震調査研究推進本部地震調査委員会委員長代理などを歴任。留学中の1984年、39歳のときに地震や火山によって地球表面がどのように変形するかを計算する、もっとも一般的でかつ簡潔な形の理論式「オカダモデル」を導出。当該分野の標準モデルとして国際的に広く認知されている。

つらかった御奉公時代

これまでの仕事人生でつらかったことですか? 研究者として特にそういう記憶はありませんが、しいていうなら、最初の留学から帰ってしばらくしてからの1年間はつらいといえばつらかったですかね。

帰国してから約1年半後の1986年4月から1年間、当時の科学技術庁(現文部科学省。2001年に旧文部省と統合)で勤務したんです。霞が関の役所も人が少ないものですから、管轄する研究所などに協力を求め人を出向させるんです。もちろん給料は各研究所もち。いわば1年間の御奉公です。(※1)

帰国してからは留学時に完成させた計算式を元にして、もう少し地殻変動の研究を深めようとしていたので、その辞令が下りたときは不本意で正直イヤだなあと思いました。

具体的な仕事の内容?研究と比べるとあまりおもしろいとはいえない仕事でしたね。研究所との連絡係や、あとは予算要求やプロジェクトの立ち上げ時のこまごました事務作業とか。予算要求のときには予算書を会計課にもっていってつき合わせるのですが、「数字がひとつ違ってる」って怒られたり、人事の辞令のハンコをもらいにいったり、それから大臣が防災関係の施設を見学に行くときに、旅行代理店に切符を買いにも行きました。それから国会対策なども行いました。

働き始めの頃は、霞が関の机に座っていても四六時中忙しいわけじゃないだろうから、研究のための勉強の本を空いた時間に読もうなんて殊勝なことを考えてたんです。ところが実際に行ってみたら全然そんな雰囲気じゃなくて。非常に忙しかったし、そんなことは全くできませんでした。

だから最初の2カ月間くらいは、かなりしんどかったですね。精神的だけじゃなくて、肉体的にも。いきなり通勤時間が10倍以上になりましたから。それまで筑波の研究所の近くに住んでいて、車通勤で楽だっただけに余計こたえました。

予算要求や国会対策などの全然知らない世界で、慣れない事務仕事をして、夜遅くまで残されて、でも次の日になるとまた朝早く満員電車に揺られながら出勤しなければならないっていうのは「つらいなあ」と正直思っていました。ちなみに今みたいに常磐高速バスやつくばエクスプレスもなかったので、常磐線で通っていました。特に予算編成の時期や国会前は深夜にまで仕事が及んだのでしんどかったですね。

でも3カ月くらい経つとその状況にも慣れちゃって、もう腹をくくって「この1年はサラリーマンをやろう」と意を決しました。くよくよしていても仕方がないので結局は開き直ったんですね。苦だった通勤も何とか楽しいものにしようと、学生時代に好きだった文庫本を本棚の奥から引っ張り出してきてもう一回電車の中で読んだりとか、もう心機一転ですね。

でも今考えると、この「御奉公」も貴重な経験でした。いろんな省庁へ行って官僚と接したり、国会対策などをしたりということを通じて、どういう仕組みで国の組織が動いているかってことを知るいい機会になりましたから。 この風習はいまだに残っていて、毎年当研究所の若手研究者がひとり、1年間出向しています。これがなかなか大変なんです。毎年出向する人を選ばなきゃいけないんですよ。当然ながら「喜んで行きます」っていう人はいません。ですから「いい経験になるよ」ということを理解してもらうまで説得を続けるわけです(苦笑)。

※1 1年間の御奉公──「奉公期間はちょうど1年だったんですが、本来、こういう仕事って1年くらいやって、やっと仕事の中身がわかるんですよね。2年目くらいからいい仕事ができるのかもしれません。かといって研究者として一番脂の乗っている時代に2年も3年も役所につかまるのは嫌ですけどね(笑)」

1年間官庁勤めをしてみそぎを済ませた岡田氏は二度目の留学へ。さらに研究を深め、地球の内部の動きまでよりリアルに予測できる完璧な計算式を作り上げた。

2度目の留学でオカダモデルをさらに進化

最初の留学先では、地震や火山が起きたときに地表がどういうふうに形を変えるかという理論式(オカダモデル)を作ったわけですが、本当はもちろん地下だって変形するわけなんですよね。でもそれを解明するのはものすごく大変で、2、3カ月でできるような仕事ではないんです。だから最初の留学から帰ってきてから、いつかまとまった時間が取れたらじっくりと取り組みたいとずっと思っていました。地下で起こる動きまで加えられれば完全な理論式ができますからね。

そのチャンスが1988年の9月に訪れました。科学技術振興調整費の国際共同研究で再び留学できることになったんです。留学先は今度もアメリカで、USGSという日本の気象庁と国土地理院と地質調査所と防災科学技術研究所のような機関を全部混ぜたような、地球関係のことを全般的に研究している非常に巨大な役所でした。

留学期間は当初3カ月で申請したのですが、結局、4ヶ月行っていいということになりました。そこで前回やり残した、地球の内部の動きに発展する研究に取り組みました。4カ月で7割方仕上げて、帰国後さらに1〜2年加えて、今度は地球内部の動きまで含めたいろんな変形を予測する計算式を作り上げたんです。

このときも帰国した年の7月に、伊豆半島の伊東沖で海底噴火が起きたんですよ。群発地震の中で初めて噴火したケースでした。そのときに伊豆半島の伊東のあたりが非常に大きな変形をして火山の噴火に至ったという、その地下のマグマの動きなどを観測データから説明できました。その際は地表の変形の計算式が使われたのですが、当時7割ほどの完成度だった地中の計算式は、数年後から別の災害の解釈に役に立ったんです。

さまざまな場面で使われているオカダモデル

2004年12月に起こったスマトラ島沖地震など、海底を震源とする大地震などの場合には津波の計算もするのですが、そんなときにも私の計算式が使われています。また、巨大な地震が起きるとその近辺でも地震が起きることがあると考えられているのですが、そういう地震の影響を考える際には、地表だけじゃなくて地球の内部で周辺にどういうひずみを及ぼすのかという計算が必要なんですよね。

実際にスマトラ島沖で2004年12月にマグニチュード9という巨大地震が起きたときは、ある外国の研究者がそのすぐ東隣の海域でまた大きな地震が起きるかもしれないという論文を私の計算式を使って発表しました。するとその通り翌年の3月にM8くらいの地震が起きたんです。それから数年して2007年7月に、またその近辺でM8くらいの地震が起きました。そして近々起きるだろうといわれている場所もある程度予測されています。予測できたら対策も立てられます。そういうふうに思わぬ方向に私の計算式がどんどん使われて、いろんな局面で役に立ってるというのはすごくうれしいですね。

でも、そもそも1回目の留学でその式を作り始めたときは、「巨大地震を予測するために」というよりも、数学的に完璧な式を作ろうという欲求が強かったんですよね。自分の好きなことやっていて、気がつけば思わぬところで役に立っていた。この件に限らず、私の人生はいろんな面でそういう感じですね。

地震研究の分野で実績を挙げていった岡田氏は、1993年、地震予知研究部門のトップに就任。順風満帆な研究生活を送るかに見えたが、ほどなくして思いもよらなかった方面で起こった大地震により、厳しい局面に立たされてしまうことになる。

阪神淡路大震災で厳しいバッシング

日本では1960年代後半から国を挙げて地震予知の研究に取り組もうという機運が高まりました。当研究所では、東海地震説が発表された1978年頃から地震予知に本腰を入れて頑張ろうというムードが強まり、その影響で、それまでは地震研究部門が十数人くらいしかいなかったのが、私が入所した1980年頃には30人ほどにふくれ上がっていました。しかしこれではあまりにもほかの研究部門と比べてバランスが悪すぎるということで、1993年に地震関係の研究部を地圏地球科学技術研究部と地震予知研究センターとのふたつに分けたんです。その際、新しくできた地震予知研究センターのセンター長を拝命しました。

しかし、その2年後、1995年1月に阪神淡路大震災が起きました。まさに青天の霹靂ですよ。みんな「次は東海地震だ」なんて素朴に思っていたのが、ノーマークだった関西であんな巨大な地震が起きてしまった。

これにより、我々を含め、全国の地震の研究機関が世間から相当叩かれました。これほどの大地震がなぜ予知できなかったんだと。確かに叩かれてもしょうがない状況ではあったと思います。でも当時必ず来るといわれていた東海地震だっていつ来るのかを正確に予知するなんて少なくとも現時点では不可能なのに、ましてや他の地域はとても無理だというのが、我々研究者の共通認識だったんです。しかし、そんなことを言ったって国民は許してくれません。国民としては、地震予知連(※2)みたいな組織があるんだから日本中の地震が予知できて当然だと思ってる。そのギャップがあまりに大きかったんでしょうね。

政府でも対応を迫られました。当時の地震予知推進本部の本部長は科学技術庁の長官だったのですが、予知の旗は降ろさざるを得ない形勢でした。国会では「日本を地震から守る国会議員の会」が結成され、議員立法による「地震対策特別措置法」が成立しました。これに基づいて地震調査研究推進本部が当時の総理府に設置され(現在は文部科学省に設置)、地震予知推進本部は自然消滅することになったんです。

※2 地震予知連──地震予知連絡会。地震予知に関する調査・観測・研究結果等の情報の交換とそれらに基づく学術的な検討を行うための組織。1969年、測地学審議会の建議にもとづいて、国土地理院長の私的諮問機関としてスタートした。地震に関する観測研究を実施している関係機関や大学の30名の委員で構成され、年4回定期的に開催されている。岡田氏も過去に副会長を務めた。

「予知」から「調査」に

そんなわけで阪神淡路大震災以降、日本の地震の研究体制を再点検しなければならないということになったんです。「できもしないくせに予知なんて言葉を安易に使うな」っていう風潮になって、魔女狩りのごとく「予知」という言葉が使えなくなり、全部「調査」に置き換わったんですよ。

「地震予知研究センター」が「地震調査研究センター」に変わって、その下部組織に「直下型地震予知研究室」や「海溝型地震予知研究室」などがあったんですが、それらもすべて「調査」に変わりました。まあこれはしょうがないと思うんですが、火山の噴火までも、「火山噴火予知研究室」から「火山噴火調査研究室」に変わったんです。でも火山は予知できるんですよ。だからここまでしなくてもよかったのにとも思いますね。

かといって「予知」を完全にあきらめてしまったわけじゃなくて、大学中心にまだ予知計画というのは残ってます。かなり基礎的な色彩にはなってますけどね。

それに「地震予知連絡会」はまだ「予知」という言葉を使ってます。予知連は歴史が長いので一番有名なんですが、実は国土地理院長の諮問機関という位置づけなんですよ。3カ月に一度、地震予知に関係する仕事に従事している人が集まって情報交換するという私的な勉強会で、現在でも続いています。

また、気象庁の中には「地震予知情報課」があります。ただここは東海地震に限ったセクションなんですけどね。だから地震予知は完全に消えてなくなったわけではなく、究極の目標として続いているんです。

じゃあ結局のところ、地震予知は可能なのか不可能なのか?そう聞かれたとき私はいつも、「100%不可能ではないけれども、現時点では不可能に近いくらい難しい」と答えています。

南関東地域、東海、近畿、四国沖の南海トラフ沿いの地域は、いつ大地震がきてもおかしくないといわれている。政府管轄の地震調査委員会の発表によると、これらの地域で30年以内に大地震が発生する確率は70%前後。50年以内となると90%に跳ね上がる。しかし岡田氏は語る。事実上、地震予知は現時点では不可能なのだと。 次回は地震予知の現在と将来について詳しく語っていただきます。

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