キャリア&転職研究室|魂の仕事人|第36回 防災科学技術研究所 理事長 岡田義光-その2-24歳で生…

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第36回
岡田義光氏インタビュー(その2/全5回

岡田義光氏

24歳で生涯の仕事を決め
30代で地震観測の礎を築く
先輩の誘いで人生が変わった

独立行政法人 防災科学技術研究所 理事長岡田 義光

東京大学大学院に進学後、本格的に地震研究の道に足を踏み入れた岡田氏。研究に明け暮れる日々の中で、幸運にも在学中に就職先が見つかった。しかしそこはたったふたりだけの職場、肩書きはいきなりの「所長」だった──。今回は20代中盤にして一生の仕事を決めた若き研究者の苦闘の日々と、運命を変えた転機に迫った。

おかだ・よしみつ

世界的な地球物理学研究者。専門は地震学及び地殻変動論。1945年東京都生まれ。東京大学理学部地球物理学科を卒業後、東京大学大学院地震研究室へ。理学系研究科修士課程修了後、70年に東京大学地震研究所に助手として就職。80年に理学博士号取得。10年間勤務後、先輩の勧めで国立防災科学技術センターへ転職。第2研究部地殻力学研究室長、防災科学技術研究所地震予知研究センター長、同地震調査研究センター長、同企画部長等を経て、2006年に理事長に就任。地震予知連絡会副会長や地震調査研究推進本部地震調査委員会委員長代理などを歴任。留学中の1984年、39歳のときに地震や火山によって地球表面がどのように変形するかを計算する、もっとも一般的でかつ簡潔な形の理論式「オカダモデル」を導出。当該分野の標準モデルとして国際的に広く認知されている。

東大地震研究所に就職

大学院に進んでからは、マスター(修士課程)、ドクター(博士課程)と進みます。当然ちゃんとドクターを3年間勤め上げて、ドクター論文を書いて就職しようって誰もが考えます。ですが、なかなか就職口はありません。何せ特殊な仕事ですから。先輩は、いろんな大学の助手のポストを必死で探してどんどん応募していました。それでもなかなか難しいようでしたけどね。

私の場合は幸運なことにドクター1年のときに教授から「東大地震研究所に新しい助手のポストができるからやってみないか」と声をかけられたんです。といっても、東京の本郷キャンパスにある地震研究所ではなく、山梨の観測所でした。東大地震研究所の付属の観測所というのが全国に十数か所あるんですが、そのうちのひとつ「富士川地殻変動観測所」がその翌年の4月にオープンするからそこへ行けと。

どうやら富士川観測所の担当部門の教授が、誰かいい学生はいないかって、当時私が所属していた浅田研究室の方に斡旋依頼をしたところ、私を推薦してくれたらしいんですよね。

地震に近い仕事ですし、東大地震研究所はいわゆる日本の地震研究をリードする最も優れた研究機関という職場でしたから、一も二もなく「喜んで行かせていただきます」と即答しました。そのときはほとんど悩まなかったですね。むしろ就職口が見つかってこれから先の研究生活が保障されるということで喜びました。

そういうわけで1970年1月に東大地震研究所の富士川地殻変動観測所に就職したんです。1月から3月までは観測所のオープンの準備などをしていて、4月から山梨の観測所(※1)勤めになりました。

※1 山梨の観測所──行政としては山梨県だが、最南部の静岡県との県境に近い、富士山に近い場所にあった。よって、テレビは甲府よりも静岡のチャンネルの方がよく入るといった、文化圏としては静岡県だったという。

観測所といっても、職員は20代半ばの助手になりたての私と、現地の高校を出たばっかりの若手のたった二人だけの職場でした。しかも私の肩書きは現地の「所長」。大学出たての助手なのに(笑)。でも東大地震研究所の観測所って、だいたい似たりよったりなんですね。職員は数人くらいで、助手がひとりそこを任されていて、ほかに技官みたいな人がつく。私の観測所はひとりしかいませんでしたが、2〜3人いるところもあるし、中にはひとりもいない観測所もあったりしたんですよ。まあごくささやかな組織でした。

というわけで、トップは私、出勤簿は一応あることはあるんですが厳しい管理はなく、勤務地には上司もいない、というような夢のような生活が始まったんです(笑)。

この道で生きてゆくと決意

もうこの時点で「これから俺は地震の研究で飯を食っていくんだ」と肚を決めました。観測所を任されるということもありましたし、「俺はこの道で行くんだ」という感じですね。ちなみに当時の初任給は3万円くらいでしたかね。

大学出たての助手ですが、いきなり観測所のトップになって下に職員はひとりしかいない、もちろん教えてくれる人もいない。ですが不安はそれほどなかったですね。今までの経験の蓄積で何とかなるだろうというのと、当時はしょっちゅう、月に2~3回は東京の地震研に通っていましたから。その際に教授に、今後どうしていけばいいかなど、研究の方向性を相談したり、ゼミや勉強会などの研究の現場に出たりしてました。今みたいにパソコンやインターネットなどがない時代ですからね。

就職して3カ月くらいしてからカローラを買ったんですよ。もちろん月賦でね。それでもって山梨と東京を往復していました。その車で20万キロほど走りましたよ。ちなみに東名の高速道路を行き来していたのでタイヤは減りますが、ブレーキはほとんど減らなくて、10年間一度もブレーキ周りのパーツを変えなくてすみました(笑)。

学生のときは小刻みに早く揺れる微小地震の研究をしていたのですが、観測所では地殻変動を研究できました。地殻変動はものすごくゆっくり、何日も何年もかかってじっくりじわじわ地面が変形していくもので、それを毎日観測するんですね。周波数の一番高い微小地震とは対極の世界です。

こういった地震学の周波数の高いところから正反対の低いところまで研究できたのがよかった。どちらかというと、地震研究と地殻変動研究はどちらか一方しかやっていない研究者が多いんです。私はその両方を体験してどっちもわかるというのが、研究者としてのアドバンテージになりました。

「震研紛争」、勃発

ただ、良いことばかりではなくてですね、観測所に就職した年の8月に、東京大学地震研究所で宮村教授が臨時職員を足蹴にするという「宮村事件」が起きたんです。

当時、東京大学ではいわゆる「東大紛争」が収まりかけていたんですが、地震研究所でそういう事件が起きたことにより、「震研紛争」というものが始まったんです。約5年間、あまり教授と顔を合わさないような状態が続いてしまって。通常は地震研究所に就職したわけですから、教授と一緒に仕事をしなくちゃいけないんですが、どっちかというと教授会に楯突いてわいわい言う方でしたから……。まあ若気の至りですね(笑)。今思うと、職業としての研究生活の滑り出しの時期に、ちゃんとした人間関係を作らなかったという反省はありますけどね。

そんな状況でちゃんと研究はできたのか?確かに現地ではふたりしかいなかったし、研究所の本所もちょうど紛争なんていう状況になっていたものですから、これはもう自分でなんとかするしかないと思い、助手仲間と研究会や勉強会をやったり、あとは独学に励んでいました。もちろん現地ではデータはたくさん取れるので、それを元に論文を書いたり、学会で発表したりしていました。

世間の表舞台に

5年が経つ頃には紛争も落ち着いてきて教授会との関係も修復できたんですが、ちょうどそのころ、1970年代の半ばは、伊豆半島の周辺で地震活動が非常に活発になる時期なんですよ。1974年に下田のあたりで起きた伊豆半島沖地震など、70年代から80年代にかけて、群発地震が非常に激しく繰り返されました。富士川観測所が伊豆に近かったので、そういうイベントがあると飛んで行って臨時観測の手伝いをしたり、けっこう忙しかった思い出がありますね。

また時を同じくして、私の一学年下で今年(2008年)の3月まで神戸大学教授を務めていた石橋克彦君という研究者が「東海地震説」(※2)を発表したのですが、国会で取り上げられて大騒ぎになったんです。それがきっかけとなって1978年には「大規模地震対策特別措置法」という法律ができて、国を挙げての東海地震予知体制というのに流れ込んでいくわけです。このあたりからやおら地震学が社会の表舞台に引きずり出されたんですよね。

それまで地震学といえば、「地震ってどうして起きるんだろう?」とか「地球の中ってどうなってるんだろう?」っていう、ものすごい基礎研究のひとつとして認識されていました。ところが「東海地震説」の登場により、非常に地味で静かに研究できると思っていた環境ががらりと様変わりしてしまって。それからというもの、地震学が社会の脚光を浴び、ちょっと地震があるとすぐにマスコミが取材に来たりという社会とのつながりがものすごく強くなりましたが、それまではまさかそんなことになるとは夢にも思ってなかったですね。

※2 東海地震説──1976年、石橋克彦氏が、近い将来、駿河湾域で大規模な地震が発生する可能性が高いと発表。30年以上経った現在でもまだ大地震は起こっていないが、石橋氏はいまだその危険性は拭えないとしている。

地震学が社会から注目を集め始めたころ、35歳で理学博士号を取得。時を同じくして後に岡田氏の運命を大きく変える転機が訪れた。

先輩の誘いで転職を決意

東大の地震研に就職して10年が経つ頃に、ここ(防災科学技術研究所、当時・国立防災科学技術センター)に勤めていた大竹政和さん(現・地震予知連絡会会長/東北大学名誉教授)という東大時代の先輩からお誘いを受けたんです。国立防災科学技術センターに移って一緒に働かないかと。でもそのときはあまり気持ちが動きませんでした。

理由は2つあって、ひとつは、当時、東京大学地震研究所は、地震研究に関しては日本一環境のいいところだったんですよ。東大の地震研究所か京大の防災研究所が自然災害の研究所としては最高峰だったんですね。今でこそ、この防災科学技術研究所(当時:防災科学技術センター)は我が国で防災研究のトップを争うような機関になってるんですが、1980年当時はまだまだ発展途上というイメージが強かったですね。研究者も少なかったし、知名度もほとんどなかった。そんなところに行っていいのかなっていうのが、まず第一にあったんですよね。

もうひとつは、富士川観測所での暮らしが捨てがたかったんです。とても豊かな自然に囲まれてるし、のびのびとしてるし、束縛は全然ないですしね。天国のような生活でしたから(笑)。だからそのときはお断りしたんです。

でもその翌年に大竹さんから2度目のお誘いを受けましてね。東海地震説や大規模地震対策特別措置法の登場により、防災センターで東海地震の予知のための研究を始める。それは関東・東海地方に微小地震をキャッチする無数の観測機を敷き詰めて巨大な観測網を作るというビッグプロジェクトだと。その観測網を作る仕事をやってほしいと口説かれたんです。

その話を聞いたとき、ぐらっときましてね(笑)。それまで自分がやってきた微小地震や地殻変動の仕事などの延長上だし、東大のように元ができあがっている組織とは違って、これから伸びていくような組織での仕事だからおもしろいなと思ったんです。大竹さんがパイオニアとして防災センターに行ってバリバリ仕事をしていたのは風の便りで聞こえてきてましたしね。

確かに富士川での暮らしは天国でしたが、一生ここで終わるのはいくらなんでもまずいかなという気もし始めていたんです。のんびりしているのはいいのですが、やっぱり学問や研究などの中心地とは隔絶されてますからね。たまに東京に出るといっても限界がありますし。加えてそのころ子供がそろそろ小学校に上がろうかというときで。富士川は教育するには非常に大変なところだったんです。当時住んでいたのは、日常の買い物に行くにも車で10分や15分はかかるような田舎でしたから。

そういった新しい仕事・新天地への興味や、家族のこと、子供のこと、それに2回目のお誘いを断るのも忍びないということもあり、1980年の3月に思い切ってこの筑波に移ってきたわけです。理学博士号を取得したのもちょうどこのころ、35歳のときでした。

つくばの国立防災科学技術センターへ

国立防災科学技術センターには、第2研究部地殻力学研究室長として赴任しました。それからはその観測網作りに取り組みました。私を呼んでくれた大竹さんがプロジェクトリーダーで、その片腕としてそれこそあっちこっち、東京はもちろん静岡県や愛知県など関東・東海地方を駆けずり回り、5年ほどずっと観測点を作っていました。

観測網が完成に近づくにつれ非常に良いデータが収集できるようになり、研究所としての成果も上がり始めました。関東・東海地方の地下は日本でも最も複雑なところなんですが、地下がどうなっていてどういうふうに地震が起きてるかという成果が続々出てくるようになったんですね。それにつれて良い意味でのフィードバックが働いて、良い研究者もだんだん集まるようになってきました。

それまでは地震の研究者ってたぶん10人もいなかったと思うんですよね。7〜8人とかで。私が入った時期に10数人になって、間もなく30人近くになったんです。80年代の終わりくらいには一大勢力になった。その頃がまさに発展期でしたね。

現在では東大地震研究所と肩を並べる以上にステータスが上がってきて、今はもう日本の地震研究といえば当研究所という感じになってきました。そういう意味で、あのとき大竹先輩のお誘いを受けて防災センターに転職したのは正解だったなと思ってます。

そのときにもし誘いに乗らなかったら? 今も東京大学の地震研究所にいると思います。それはそれで別の有意義な人生を歩んでいるかもしれませんが、ただ、ひとついえるのはこれまでやってきたような大きな仕事はさせてもらえなかったでしょうね。大学と国の直轄機関では予算の規模が全然違うんですよ。大学はいろいろ自分の好き勝手にできるかわりに、当時1研究室の年間の予算がだいたい150万円くらいでした。でもここに来たらゼロの数があとふたつかみっつほど違いました。一気に何億円という規模の仕事ですからね。そういう意味で非常に大きな仕事をさせてもらえたのがよかったと思います。

防災センターに転職して4年後、世界の地震研究の拠点のひとつだったコロンビア大学に留学。そこで後に世界の地震学者が驚くほどの成果を挙げることになろうとは、岡田氏自身も想像すらしていなかった。

アメリカ留学で生まれた新理論

関東・東海の観測網つくりが一段落した頃、大竹先輩から「観測網を作るのに苦労したから外国でも行って少しゆっくりしてきたらどうか」と声がかかりました。まあ実際はゆっくりもできないんですけれども(笑)。

学問の世界では、研究者の生活の一過程として外国に行って修行してくるといった風習があるんですよね。当時この研究所は科学技術庁の管轄だったのですが、科学技術庁には「長期在外研究員制度」というのがあるんですよ。それを使って若い研究者が最長1年間、海外留学に行ってたのですが、年齢制限がありまして、上限が35歳なんです。でも私はそのときとっくに35歳を過ぎていたので、その制度は使えませんでした。

でももうひとつ「中期在外研究員制度」っていうのがあって、これは35歳以上でもOKなんですが、最長6カ月だったんですね。まあこれでもいいやと思って、申し込んだんです。

でも申し込んでも希望通りいくわけじゃなくて。当然国民の税金を使って行くわけですから、財政事情でいろいろ査定をされるわけですね。6カ月で申し込んだんですが、それだけの余裕はないからということで3カ月間なら行ってもいいよと。それでニューヨークのコロンビア大学のラモント観測所に留学したわけです。ラモントは地殻変動の研究や微小地震の観測などのアメリカにおけるひとつの研究拠点で有名な先生もたくさんいたので、そこを選んで行かせてもらったんです。

そのとき生まれて初めて日本から外に出たんですよ。それこそ山梨の田舎にずっとこもっていたような生活ですから英語もろくに喋れなかったし、まだ子供も小さかったので不安でしたが、度胸を決めて、家族を連れて行ったんです。でも結果的にはものすごく楽しかったですね。行ってみたら向こうの人は親切ですし、子供たちも快く受け入れてくれましたし。

しかし地震や地殻変動の研究という意味では、実際3カ月間の短期間ではそんなにたいしたことはできません。それで思い出したのが昔の佐藤良輔先生と一緒にやった地震による地殻の変形を計算する理論モデルだったんです。

そのときは数学的な単純な知的好奇心で始めたのであって、地震の予測などに応用するために、などとは全く思っていませんでした。昔の研究者たちがやってきた仕事が不完全でちょっと虫食い状態になっているからきちんとした体系にしようかと。それがちょうど3カ月くらいでできる手ごろな仕事だからと思って計算式の体系を作ったんです。それが後に通称「オカダモデル」(※3)と呼ばれる計算式の元で、後年こんなに役に立つとは思ってもみませんでした。

※3 オカダモデル──地震や火山によって地球の表面や内部がどのように変形するかを計算する、最も一般的かつ簡潔な形の理論式。2003年、IASPEI(国際地震・地球内部物理学連合)の100周年記念号に収録された用語集に「Okada model」として掲載され、当該分野の標準モデルとして国際的に広く認知されている。オカダモデルは、国際的に広く使用されており、日本でも1986年伊豆大島噴火、1989年伊東沖海底噴火、2000年三宅島噴火等の際に、避難対策にも役立てられた。また大地震が発生した際、周辺のどの地域で大きな余震が発生しやすいかを判断したり,2000年伊豆諸島地域の大規模な群発地震活動が東海地震の発生にどの程度の影響を及ぼすかを判断したりするなどの際に応用されている。(参考:防災科学技術研究所Webサイト)

実証された理論に感激

「オカダモデル」を論文として発表した翌年の86年10月に伊豆大島で噴火があったんです。噴火をするときには島が変形します。通常、火山というと、お餅を焼いたときみたいに島全体がぷーっと膨張して噴火とともにポンとしぼむという、そういう単純なイメージでした。 ところが、あのときは全島民に避難勧告が出たほどの激しい噴火だったのですが、その噴火の前に、ふくらむんじゃなくて帯状の沈下があって、逆に外側が膨らむという複雑な地形の変化があったんですね。

それを、今は国土交通省ですが当時は建設省の国土地理院という地図を作っている所の研究者たちが、火山の噴火前後の島の形の変化を測量したんです。その際に、私がコロンビア大学に行ったときに作った計算式を使って、どうしてこういうことになるのかっていうモデル化をしてくれたんですね。

計算式を作った時はそんなものが役立つとは全然思わなかったのですが、私の理論から予想される地球の変形が実際にその通りになったんですね。そのとき初めて感激しました。自分の予測する通りに自然界が反応する。科学者としては理論通りに地面が動いてくれたっていうのがすごくうれしかった。それ以降、火山だけじゃなくて大きな地震など、特に浅い地震が起きると、地面が上がったり下がったり横にずれたり、いろいろな動きをするのですが、それがだいたいすべてモデル通りに動いてくれるんですよ。その後私とその国土地理院の人たちと共同で、そういった関係の論文をたくさん出すことができたんです。

留学後、「オカダモデル」が実証され、研究者として大きな喜びに打ち震えたが、同時につらい現実も待ち受けていた。 次回は苦しい時期をどう過ごしたのか、そしてその後のさらなる飛躍を語っていただきます。

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