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第35回
雨宮処凛氏インタビュー(その2/全5回

雨宮処凛氏

心身ともに追い詰められ
自殺未遂を繰り返したフリーター時代
オウム事件と阪神淡路大震災で
人生が変わった

作家・活動家雨宮 処凛

高校時代に出会った球体関節人形に魅せられ、人形作家を目指すことを決意した雨宮氏。それまで通っていた予備校は辞め、アルバイトをしながら人形作家の元で修行を開始したが、時は平成不況の真っ只中。日々の食事にも困るほどの極貧生活は徐々に雨宮氏の精神を蝕んでいった。

あまみや・かりん

1975年、北海道生まれ。中学時代のいじめが元で高校不登校、家出、リストカットを繰り返す。高校卒業後に上京、人形作家を目指し美大受験に2度挑戦するも失敗し、フリーターとなる。不安定な生活の中で将来の展望や自尊心が得られず、自殺未遂を経験。その後、右翼活動家、映画出演を経て、自伝『生き地獄天国』で作家デビュー。2006年からプレカリアート問題の活動家、作家として活躍中。

自分はだれからも愛されていない

19歳のとき、浪人生ではなく人形作家見習いになったわけですが、定職をもっているわけではないので、いわゆるフリーターです。アルバイトは飲食店のウエイトレス、雑貨屋さんやゲームソフト販売店の店員などいろいろやりました。

このころはすごく困っていました。まずフリーターだと社会的に一人前として認めてもらえないんですよね。それにすごく生活が不安定でした。当時はカゼ引く=失業でしたから。カゼを引いて「休みます」ってバイト先に電話したら「明日から来なくていいから」と言われて電話をガチャンと切られるということはざらでした。

学生のバイトと違ってフリーターはそれだけで生活しているわけですから、しょっちゅうクビになると経済的にすごく困るのですが、世間的には「フリーターはいつクビを切ってもいい」というような扱いでした。もちろんすごく理不尽さを感じてはいたのですが、「しょうがない。自分がフリーターだから悪いんだろう」と世間ではなく自分を責める回路に入っていくという状態だったんですね。

クビになるたびに、「自分は誰からも必要とされていない」というやるせなさや孤独感を感じていました。また、フリーターは誰にでもできる単純労働しかさせてもらえないので、「自分は使い捨ての交換可能な人間なんだな」と強く思うようになって、どんどん自己評価が低くなっていきました。

脱出方法が分からない 出口のない絶望迷路

フリーターを始めた当初の月収は、時給が800〜1000円なので、1日8時間、週5日働いても15万円に達しないんですね。だから家賃や光熱費や食費などの生活費がまともに払えないことも多々ありました。

そこで時給が高いスナックやキャバクラで働くようになって、やっと自分の稼いだお金で生活できるようになったんです。そのころ20歳か21歳ころだったのですが、キャバクラなんて21、22歳になると熟女というか、賞味期限ギリギリなんですね。後からどんどん10代の若い女の子が入ってくるのでますます居づらくなるし、客からの指名をある程度取り続けていないとすぐクビになるという感じでした。

また、毎日8時間くらいお酒を飲んでいるので、体もおかしくなってきます。だから24歳くらいでもう続けていけないなと思うようになったのですが、でも辞めたとしてもそこからどうしようかなと。キャバクラから普通のフリーターに戻るのはなかなかできないんですよね。普通のバイトは比べ物にならないほど時給が安いので。キャバクラで働き始めたことで生活は楽になったけど、将来的には苦しくなったというか。そこで困り果てていましたね。

こんな感じでいろいろと困ることだらけでしたが、一番困っていたのは、この状況からどうやって脱出していいか、その方法が皆目わからなかったということです。正社員になりたくても、当時は大学新卒者でもなかなか内定をもらえないという超就職氷河期だったので、私のような高卒のフリーターでは絶対に無理でした。だからこのままいけば確実にホームレスになるしかないと思っていました。

再びリストカット・自殺未遂を

ひとつだけ強く思っていたのは、「ここから脱出するには何かで一発逆転してやりたいことで食べていくしかない」ということです。自分の生活が厳しいからこそ、「やりたいことを探さなくては」という思いにすごくとりつかれていたのだと思います。でも具体的にどうすればいいか、全然わかりませんでした。

そんな生きている意味など全く感じられない日々の繰り返しで、精神的にかなり追い詰められていきました。こんなに何もかもがうまくいかないのは中学時代に受けたいじめのせいだと、昔を思い出して憎悪の炎に身を焦がしていました。そしてリストカットを繰り返すようになりました。手首を切っている間だけは何も考えないでいられたんです。そんな状態が臨界点に達して、もうどうしようもなくなって、ありったけの薬を飲んで死にかけたこともありました。

自殺未遂イベントを開催

自殺未遂ばかりしている状態でしたが、少し落ち着いて考えてみると、実はこんなに生きづらいと感じている人は自分だけじゃなくて、ほかにもいるんじゃないかと思うようになりました。今はインターネットがあって手軽にそういう人たちと交流できますが、当時はネットがなかったので、イベントを主催して出会いの場をつくろうと思いついたんです。

もちろんイベントを主催するなんて初めてのことだったので、とても勇気がいりましたが、とにかく自分と同じような生きづらさを感じている人たちと出会いたいという一心でした。そうせざるをえないくらい追い詰められていたんです。

初回のイベントで集まったのは5人くらいでしたが、そこで初めて自分と同じような人と出会えました。すごくうれしかったですね。やっぱり苦しかったのは私だけじゃなかったんだと思えたので。腹の底から洗いざらい自分の苦しみを話すのも、人の苦しみを聞くのも初めての経験だったし、ありのままの自分を受け入れてくれる場所を作れたことで、イベントをやってよかったと心底思いました。その後、回を重ねるごとに参加人数も増えていって、ライブハウスを貸し切るほどの規模にまでなりました。こんなに大勢の生きづらいと感じている人がいるのかと驚きましたが、うれしくも思いました。

雨宮氏が二十歳のころ、日本を揺るがす大事件が起こった。阪神淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件である。この2つの大事件により、雨宮氏の中で何かが大きく変わった。

阪神大震災とオウム事件で人生が変わった

私が生きづらさを感じていた20歳の頃、大きな事件が立て続けに起きました。ひとつは阪神淡路大震災です。あの惨状を見て、結局どんなに競争を勝ち抜いて社会的に成功しても、大金を稼いで、家を建てても、すべてが一瞬で瓦礫の山になるというのがものすごい衝撃でした。だったら必死に頑張る意味がどこにあるのだろうと。

そしてもうひとつはその2カ月後に起こったオウム真理教(現アーレフ)による地下鉄サリン事件です。この事件がショックだったのは、自分はフリーターで、ただ生きるために誰でもできる単純作業を繰り返しているというすごく小さな日常の中で生きていたのに、オウムの中では同世代の人が世界救済とか終末思想を身にまとって、すごく大きな物語の中にいたことです。しかもすごく楽しそうというか充実していて、私のくだらない日常よりも絶対いいだろうなとすごく思ったんです。

また、オウムが唱えていた物質主義批判、拝金主義批判にもすごく共感しました。私たちの世代はけっこう生殺し状態というか、私の少し上はバブル世代なのですが、彼らのようにたくさん稼いでたくさん使って楽しむという生き方は、生涯獲得できないだろうと思っていました。しかも実際に不況に突入していたので、お金を人生のメインの糧として生きていくのは厳しいだろうなと思ったときに、物質主義や拝金主義を過剰に批判したくなったんだと思います。

もちろん実際にやったことは地下鉄にサリンをまくという絶対に許されない犯罪行為なんですが、当時の私は本当に死にたくて、みんな死ねばいいと思っていて、逆に「私の代わりにやってくれた」というくらいの気持ちになったんです。そのくらい追い詰められていたんです。

当時20歳でフリーターの私は、不況の嵐が吹きすさぶ荒野の中にひとり立たされて、これから先どうやって生きていこうという気持ちだったんですね。どこかの会社に勤めて終身雇用で生きていくだとか、あるいは正社員でお金持ちの人と結婚して専業主婦になるという生き方のモデル自体も崩れてきていましたし。ここから自分たちも含め、それ以降の世代はどうやって生きていけば最低限死なないというか幸せになれるのかをすごく考えざるをえなかったんです。

世間的にも、オウム事件に対しては物質主義・拝金主義一辺倒の戦後日本の教育や価値観が間違っていたから若者がオウムに惹かれたんじゃないかという論調が出てきたのですが、それにすごく共感しました。「自分は戦後の日本に生まれたからこんなに生きづらく、苦しいのかもしれない」と思い、「戦後日本の価値観」に対する違和感は決定的になりました。そして「もしかして私が感じている生きづらさは私だけのせいではないかもしれない」と思うようになった最初のきっかけでした。

戦争とは何だったのか

戦後日本の作り上げてきたものが地震によって崩壊した2カ月後に、今度はオウムによってそれを下支えしてきた価値観そのものも崩壊しました。いろんなものが崩れ果てたときが成人の歳の20歳だったので、ここから新しい価値観をいちから自分たちで作っていかなければいけない、自分で模索しなければどうしようもないなと考えるようになったんです。

同時に自分が生きている国や社会について知らないことはとても怖いなと思いました。それでこれまでの日本の社会とか政治とか宗教という問題についてすごく考えたいという気持ちになったんです。

その年は戦後50年の節目の年でもあったので、まずは日本が行った戦争とはいったいどういうものだったのかを知りたくて、また、戦争について全く知らない自分がすごく怖いとも思ったので、8月にメディアがこぞって放映する戦争に関する番組を見まくりました。

たくさんの人々が死んでいく映像を見て大きなショックを受けました。「なぜこの人たちは死ななければならなかったのか」と。そして戦争で死んでいく兵士たちの「子々孫々のため」という言葉を聞いて愕然としました。兵士たちは「子々孫々」である我々のために死んでいった。なのに私たちは戦争のことなんてちっとも知らず、知ろうともせず、自分の欲望を満たすことだけを考えて毎日生きている。大きな罪悪感を感じました。

映像を観れば観るほどあの戦争は何だったのかという疑問がますます大きくなり、もっと知りたいと思うようになりました。また、戦争のことを聞くなら右翼か左翼だろうと思って、あるイベントで知り合った見沢知廉さん(※1)にそれぞれの集会に連れて行ってもらったんです。

※1 見沢知廉──1959年東京生まれ。作家・活動家。1982年、スパイ粛清事件等で政治犯として逮捕され、東京拘置所、川越少年刑務所、千葉刑務所などに12年間収監された。獄中で書いた小説『天皇ごっこ』で第25回新日本文学賞を受賞。1996年に出版した『囚人狂時代』が8万5000部のベストセラーに。2005年、自宅マンション8階から転落死した。享年46歳。

右翼に入って目からウロコ

左翼の方は大学出のインテリが多く、言ってることが難しすぎて私には理解不能でした。次に右翼の集会に行ったら、「今の物質主義者と拝金主義者しかいない日本で若者が生きづらいのは当然なんだ」とか、「こんな日本では生きる意味がないじゃないか」とか、「結局悪いのは若者じゃなくて、戦後民主主義なんだ。物質主義、拝金主義を刷り込んだアメリカなんだ」ということを言っていたのですが、眼からウロコが落ちるというか、これらの言葉はすんなり私の中に入ってきました。

それまでフリーターでクビになったり、貧乏だったり、いじめを引きずって生きづらかったりするのは全部自分のせいだと思っていたのですが、そうじゃない、すべては戦後日本のあり方に関係がある、自分に誇りがもてなくなっているからダメで、それは「全部アメリカが悪い」と右翼の人が言ってくれたんです。それによって、初めて自分が悪いんじゃないと思えて、自分を責める回路ではなくなったんです。

それですぐその右翼団体に入りました。そうしたらリストカットが一発でやめられたんです。それは明確な「敵」が見つかったからでしょうね。リストカットに向かうのは自分に対する憎悪だとか自分を責める心が発端となるので、アメリカと戦後日本という敵が見つかったことで、気持ちはそちらへ向かい、手首を切る必要がなくなったんでしょうね。

右翼団体に入ってからは政治の勉強をしたり、機関紙に原稿を書いたり、月に2回くらい駅前でマイクで演説したり、たまに大きな集会に出たりしていました。あと団体内で右翼バンドを組んでライブ活動をしていました。右翼活動にハマっているときは充実していましたね。このころは「ミニスカ右翼」なんて呼ばれていました。

本心とのズレを感じ、右翼脱退

でも1年と少し経つくらいから段々苦しくなってきたんです。自分が生きづらいこの社会とは何なのかを考えたいとか社会を変えたいと思って、右と左の違いも分からずに右翼団体に入ったわけですが、歴史や社会のことを猛勉強するうちに、団体の考えや言うことに100%賛同できなくなってきたんです。

自分ではそれはちょっと違うんじゃないかと思っても、団体に属する以上、その思想に従わざるをえないし、偉そうなことも街宣で言わなきゃいけない。そういう自分に対して段々疑問を感じるようになったんです。それほど自分は偉い人間でもないし、確信をもっているわけでもないのに、そういう偉そうなことを言うことが苦しくなってきたんです。

さらに、もうひとつ大きかったのが『新しい神様』(※2)というドキュメンタリー映画の主役を務めたことです。半年間ほど撮影する中で、「自分はなぜこういうことしているのか?」ということに関して突き詰めて自問自答したり、監督と対話を繰り返しました。

その結果、「自分の弱さや生きづらいと感じる理由を知りたいと思いながらも、その本質を右翼思想にハマることによってごまかしているんじゃないか」という結論に行き着いたんです。アメリカが悪い、戦後民主主義が悪い、東京裁判史観が悪いと思っていれば、自分を責めずに済むから楽なのですが、それは自分の問題から逃げていると気づいたんです。それで入団から2年後の1999年に右翼団体から離脱したんです。

※2『新しい神様』── 1999年製作。反天皇派・土屋豊監督が、パンクバンド「維新赤誠塾」のメンバー・雨宮氏が右翼を辞める最後の半年間を追ったドキュメンタリー作品。雨宮氏は主演と同時に、土屋監督からデジタルビデオを渡され、撮影も敢行。毎日カメラに語り続けることで自分の本当の気持ちに気づいていく。1999年山形国際ドキュメンタリー映画祭・国際批評家連盟賞特別メンション、2000年ベルリン国際映画祭、香港国際映画祭、ポップコーン映画祭(スウェーデン)、ウィーン国際映画祭など、海外の映画祭に出品され、多くの反響を呼んだ。

自らの欺瞞に気づき、右翼を辞めた雨宮氏。そのきっかけとなった映画出演がさらに雨宮氏の運命を大きく変えていった。 次回は雨宮氏が生きづらさから真の意味で脱出していく過程に迫る。

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