キャリア&転職研究室|魂の仕事人|第35回 作家・運動家 雨宮処凛-その1-生き地獄だった中高生時代

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第35回
雨宮処凛氏インタビュー(その1/全5回

雨宮処凛氏

生き地獄だった中高生時代
リストカットを繰り返す日々を経て
日本の労働問題に挑む

作家・活動家雨宮 処凛

日本の労働問題に挑んでいる女性がいる。雨宮処凛33歳。作家として運動家として、自己責任の名のもと、生存すら脅かされている人びとのために粉骨砕身している。過去に自殺未遂を何度も繰り返すなど、自身も地獄のような日々を送ってきた雨宮氏に「生きづらさ」から脱出するにはどうすればいいか、雨宮氏にとって仕事とは何か、働くとはどういうことかについて語ってもらった。

あまみや・かりん

1975年、北海道生まれ。中学時代のいじめが元で高校不登校、家出、リストカットを繰り返す。高校卒業後に上京、人形作家を目指し美大受験に2度挑戦するも失敗し、フリーターとなる。不安定な生活の中で将来の展望や自尊心が得られず、自殺未遂を経験。その後、右翼活動家、映画出演を経て、自伝『生き地獄天国』で作家デビュー。2006年からプレカリアート問題の活動家、作家として活躍中。

プレカリアート問題に取り組む

現在は作家として若者の労働問題、特に「プレカリアート問題」に関する取材、執筆、運動をメインに行っています。

「プレカリアート」とは英語の“precarious(プレカリアス)”=「不安定な」とドイツ語の=“proletariat(プロレタリアート)”=「労働者階級」をくっつけた、「不安定なプロレタリアート(労働者)」という意味の造語です。

定義は「経済至上主義のもと、不安定さをしいられた人びと」という意味で、具体的にはフリーター、派遣労働者、契約社員などの非正規雇用者やニートを含む失業者などを指します。 最初に「プレカリアート」という言葉に出会ったのは2006年の4月、インターネットで情報収集している際に、「プレカリアート」という言葉にすごく引っかかり、集会が開催されるというのを知って参加したのがきっかけです。

それまでいじめなどを受けて生きづらさを感じている人や自殺志願者の取材を6年くらい続けていたのですが、その間、周りの自殺者は減らないし、死にたいという人も一向に減りませんでした。今の日本ではこの閉塞感を打ち破る突破口というか出口がなかなか見つからないと感じていました。

精神的に不安定になって自殺していく理由は個人の心の問題とばかり考えていたのですが、「プレカリアート」という言葉を見たときに、その背景には「不安定な生活状況」が密接に関係しているんじゃないか、つまり、不安定な生活が不安定な心を生み出しているんじゃないかとすごく思ったんです。

プレカリアートの集会に参加してみると、まさに思ったとおりで、プレカリアート問題の背景には、ネオリベラリズム(※1)の問題、日本の経済や政治の問題などいち個人ではどうすることもできない構造的な問題がいろいろあって、それは私が追いかけていた一向に減らない自殺や生きづらさの問題と地続きなんだと気づいたんです。そこからプレカリアート問題への取り組みが始まりました。

※1 ネオリベラリズム──1980年代からアメリカ・イギリスなどで台頭してきた主義・思想。邦訳は新自由主義。新自由主義政策をとったアメリカでは、市場原理、自由競争が何よりも尊重され、政府主導で規制緩和、公共事業の民営化を推し進めた結果、貧富の差はますます拡大。医療、教育、災害対策機関までも民営化したことにより、下層だけではなく、中流階層でも自己破産が増えている。日本ではアメリカ・ブッシュ政権と強く結びついた小泉政権が同じように規制緩和、民営化、大企業優遇策を推し進め、その後、安部政権が引きついだ。その結果、格差は広がり、ワーキングプア、ネットカフェ難民など、生存すら危ぶまれている人が増えている。

いじめ問題からプレカリアート問題へとシフトした雨宮氏。しかしそもそもの発端は雨宮氏自身が苛烈ないじめを受けていたことに起因する。

原体験は中学生のとき受けていたいじめ

私は中学時代にひどいいじめを受けていました。それはある日突然始まりました。部活内でいじめられる順番みたいなのがあったのですが、仲のいい部員たちで普段は守りあっていじめに遭わないようにしていました。でも、ひとりがいじめのターゲットになってしまうと、その友達もこれまでとは態度を豹変させて、その人をいじめる側にスケープゴートとして差し出すという感じでした。自分の身を守るために……。

ある日突然、昨日まで友達だった人から無視されたり、ヒソヒソ話や陰口を叩かれたり、冷たい視線を浴びせられたり、殴る蹴るの暴力が始まるんです。昨日まですごく仲良かった人たちが今日からいじめる側にまわったというのが、すごくつらかった。人間関係のベースとなる信頼の部分が崩れたのが厳しかったですね。

部活は辞めたのですが、いじめる人たちは学校にいるので、中学卒業まで常にその人たち全員に怯えているような状態でした。だから学校内ではその人たちの視界に絶対に入らないように逃げ惑いながら暮らしていたような感じで、毎日すごい緊張状態で精神的に張り詰めていました。

だけど、当時は自分がいじめられているという事実を絶対に認めたくなかった。認めてしまうと恥ずかしいのと情けないのとでより一層みじめになるというか、自分自身が崩壊してしまうような気がしていたんです。いじめじゃなくて友達同士のいたずらなんだと思い込もうとしていましたし、頭の中を空白にして極力いじめられていること自体を考えないようにしよう、別のことを考えようとしていました。

でも現実にひどいことをされるのは間違いないので、学校に行くのが嫌で嫌でたまらず、毎日明け方まで眠れませんでした。不安で叫び出しそうになるので、自分の手の甲にコンパスの針をグサグサ突き刺しながら泣きました。私が泣いているのはいじめられているからではなくて、コンパスの針が痛いからだと。そうしなければ泣くことすらできなかったんです。

無意識に自殺を試みる

地獄のような毎日でしたが、不登校もせずに毎日学校に通っていました。今思えば不登校した方が絶対よかったと思うんですけどね。自分の中ではいじめられていないことになっていたので、休むことはできなかったんですよね。それに一日でも休んだら、二度と学校には行けなくなってしまう、そうなると高校へも行けず、自分の人生は終わってしまう、そう思うと恐怖でいっぱいになり、休めなかったんです。とにかく、何も考えず、感じないようにして、朦朧としたまま毎日学校に行っていました。

いじめられながらも勉強はすごくしていました。元々優等生だったのですが、学校でいじめられて居場所がなくて、その上成績まで落ちてしまったら、親にも嫌われて家にも居場所がなくなってしまう。そうなるともう死ぬしかないと思って、必死で成績だけは落とさないようにと頑張っていたわけです。だからもちろんいじめのことは親には言えませんでした。

はたから見ると、成績はいいし、親の言うことはよく聞くしといういわゆる「いい子」だったのですが、心の内側、精神的にはめちゃくちゃな状態でした。自殺を考えたことはなかったのですが、自殺しそうなことをしていました。例えば自転車で猛スピードで車道に突っ込んだりとか。幸い車が来なかったので死なずに済みましたが。無意識に死ぬような行動をよくするほど、頭がおかしい状況だったんです。

バンドの追っかけとリストカットに明け暮れた高校時代

中学卒業後はいじめていた人たちと別の高校に入ったので、そこで初めて学校内で逃げなくてよくなって、ほっとしました。ですが、その反動で今まで押し殺していた感情が一気に爆発して親に当たるようになりました。

高校に入ってから、「どうして親は(中学のときに受けていた)いじめに気づいてくれなかったんだろう」って逆恨みのような感情が芽生えてきたんです。例えば制服に靴で蹴られた跡がついていたこともあったのですが、それに気づいてくれなかったり。そんなことも後で思い起こしてすごく腹が立ちました。

だから高校にも登校せず、家出を繰り返すようになりました。高校ではまた裏切られるんじゃないかと思うと、怖くて友達は作れなかったですね。また、自分の居場所・軸となる場所を高校にすると、そこでいじめられたら居場所がなくなってつらくなるので、この学校にいない人間になろうと。だからたまに学校に行っても人とコミュニケーションを取らないようにしていました。浮いた存在になればいじめられないんじゃないかと思って。

家にも学校にも居場所がないので、ライブハウスに入り浸っていました。その頃ビジュアル系のバンドにハマっていたのですが、そのバンドの歌は、破壊的でやたら死や自殺という言葉が出てくる暗い感じの歌詞でした。自分で表現できない衝動を代弁してくれているような気がしたのでハマったのだと思います。また他のファンの子の多くは家庭が複雑だったり学校でいじめに遭っていたりと当時の私と似た境遇だったので、そこで初めて自分と同じ人種に会えたと思ったんです。当時の私の友達は、追っかけをしていたバンドの同じファンの子たちだけでした。

ライブハウスに行った後は家に帰りたくないからそのまま友達と野宿したりしていました。野宿といっても、当時は北海道に住んでいたので冬にはマイナス13度になります。ほんとに凍死するかと思いました。

親は「中学のときのいい子のあなたに戻りなさい」と言うんですよね。でも中学のときの私はかなり死ぬか生きるかのぎりぎりの狭間にいて、精神的にもボロボロの状態だったので、あの頃の私にとって「戻りなさい」と言われるのは本当に「死ね」といわれるのとイコールだったんです。親は本当に私のことを理解してくれないという怒りの感情でいっぱいでした。

その怒りは自傷行為へと向かいました。自分の手首をカッターでしょっちゅう切るようになったんです。でもリストカットは感情が戻ってきた証拠なんですよね。中学時代はリストカットすらもできないほど感情を押し殺していましたから。

最初の夢は人形作家

高校生のときは人形作家になりたいと思っていました。人形といっても全然かわいらしいものではなくて、球体関節人形といって、ゴシック系というかすごく怖い感じの人形です。初めてそれを見たときに、ビジュアル系バンドと同じように、自分の気持ちを代弁してくれているような感じがしたんです。それで自分も「こんな人形を作れたらいいな」と思って人形作家を目指そうと。

当時は天野可淡(※2)さんという球体関節人形作家が好きだったのですが、天野さんが美大を卒業していたので、人形作家になるためには美大に行けばいいんじゃないかと思って。それで上京して美大を受験したのですが、当然まともに高校に通っていなかったので落ちてしまいました。でもどうしても人形作家になりたかったので、翌年もチャレンジしようと予備校に通い始めたところ、予備校の先生がたまたま天野さんの知り合いだったんです。天野さんご自身は当時亡くなっていたのですが、天野さんと一緒に人形を作っていた人を紹介してもらって、弟子入りしたんです。 それと同時に予備校は辞めました。もともと美大に行きたかったんじゃなくて、人形作家になりたかったわけですから。人形作家を目指すなら、美大に通うよりも直接人形作家に教えてもらった方が近道なので、それから人形作家の先生のところに通うようになったんです。

※2 天野可淡──1953年東京都生まれの球体関節人形作家。美大在学中から人形制作開始。第二回創作人形展でグランプリを受賞。2004年には、映画「イノセンス」公開記念、「球体関節人形展〜DOLLS OF INNOCENCE〜」(押井守監修)で数体が陳列された。1990年、交通事故により死去。享年37歳。

予備校を辞め、人形作家としての道を歩むことを決意した雨宮氏。夢が見つかったかに思えたがその先にはさらなる厳しい現実が待ち受けていた──。 次回は出口の見えないフリーター時代、そして人生を変えた二つの大事件について語る。

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