キャリア&転職研究室|魂の仕事人|第33回 バトントワラー 高橋典子-その2-驚異的な強さで世界女王…

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魂の仕事人 第33回 其の二
驚異的な強さで世界女王に 心無い声と父親の反対で苦悩するも バトンへの強い思いで継続を決意
新しい指導者との出会いによって、バトンの概念が変わり、競技者として飛躍するきっかけをつかんだ。これが日本国内で、そして世界で前人未到の記録を樹立する伝説の幕開けとなる。さらに高橋氏の人生そのものも大きく変わっていった。  
バトントワラー 高橋典子
 

アメリカ留学はひとまず保留に

 

 新しい先生のご指導のお蔭で、夢にも思わなかった世界大会へ出場できることになったので、アメリカに行って体のことを勉強するのは後回しにすることにしました。なぜなら頭よりも、体が使えなくなる方が早いと思ったからです。バトンはできるところまで続けて、それができなくなったら、またやりたかったことを目指せばいいかなと。お金もかかることなので両方はできなかったのです。どの道、世界大会の日本代表に選ばれたので、バトンを続けざるをえなかったんですけどね。

 アメリカに行くという目標そのものは捨ててはいなかったので、8月に開催される世界大会に出たら、そこで終わりにしようと思っていました。でもやり始めたら移籍してからの1カ月が充実していたのと同じように、ものすごく楽しくて、結局辞められなくなってしまったというのが本当のところです(笑)。

 その代わり、国内にある医療系専門学校の通信講座に申し込んで、身体の調整をする人になるための知識や技術の勉強を始めました。よく考えたら英語も話せないのにアメリカへ行って、突然医学用語を学んでもわからないだろうと思ったので、まずは日本で体の知識を習得しようと。2年コースだったのですが、バトンの練習や大会で忙しかったので修了まで3年かかってしまいました。

日本人女子初の快挙。伝説の始まり
 

 バトンの世界大会はジュニア(小学6年生)のときから出ているので初めてではなかったのですが、新しい環境に入ったことで自分のバトンも変わりましたね。

 8月の世界大会は、6位だったのですが、翌1990年は新しい先生の振り付けで出たところ銅メダルを頂くことができました。これは女子シニアの部、日本人として初めてのメダルだったと思います。

 特に私自身が表現したというわけではなく、その先生の作ってくださった振り付けを素直に演技しただけで、作品としてすごく評価されたんです。今までとの決定的な違いは技術の質が良くなり、表現力が増したことですね。それまでずっと表現するのが苦手で、表現力をどうつけたらいいのかすごく悩んでいました。ジャズダンスを習ったり、自分でどうしようかといろいろ試してみたりはしたのですが、元々の恥ずかしがりの性格もあってなかなかできなくて。

 今までは、曲もバックグラウンドミュージック的なかかり方で、演技と密接ではありませんでした。バトン界全体としてそういう形だったのですが、新しい先生が作ってくれた作品は音楽性があって、バトンと踊りと曲と衣装のすべてがひとつのパッケージになっていると評価されました。

 そこから私のバトンが変わっていったんです。自分で変えなきゃと思って変わったのではなく、先生のご指導のおかげで大きく変わっていったのです。そしてその翌年には優勝して金メダルをいただきました。世界チャンピオンですから、1回目のときは素直にうれしかったですね。

その後世界選手権には通算15回出場し、金メダル7個、銀メダル2個、銅メダル3個を獲得。この驚異的な記録は女子ではいまだ破られていない。まさに女子バトン界の無敵の女王として君臨し続けた高橋氏だったが、必ずしもメダルの色と自身の満足度は比例しないという。
メダルの色と満足度は必ずしも一致しない
 

 金メダルよりも銀メダルの方がうれしいこともあります。どういうことかというと、バトンは陸上などと違って、よーいドンでスタートして一番先にゴールした人が1位という競技ではなく、複数の審査員が点数をつけて、他の選手との比較で決まります。自分では満足できない演技だったとしても、他の人の点数が私よりも低ければ金メダルになりますし、私がとても満足しても、もっといい演技をした人がいれば、金メダルではなくなります。つまり自分の演技の完成度だけでなく、相手のでき如何によっても、結果が大きく左右されるわけです。

 私の場合は、他人と競うことよりも、自分が納得のいく演技をすることの方が重要です。演技が終わった後、どれだけ自分が充実しているか、ということです。

 他の人から見たら同じことを何回もしているわけなので、きっと同じに見えるかもしれないけれど、自分の中では違うんです。観る人に「完璧にできていた」と言われても、自分では「ここができていなかった」とかいろいろ出てくるわけです。練習を積み、創り上げた作品の細部にまでこだわって、一番いいものを本番で出したいのです。

 だから、自分の演技にあまり満足できなかったときの金メダルよりも、満足できたときの銀メダルの方がうれしいのです。

1番になりたいと思ったことは1度もない
 

 どういうわけか、もともと私は金メダルを取りたいとか1位になりたいと思ってバトンを続けていたわけではないのです。昔から何が何でも1位になりたいという強い欲求がないのですが、メダルの色と満足感は違うということを実際に感じているので、さらにそこに思いはなくなったのかもしれません。

 27年にわたって競技バトンを続けられたのは、納得のできる演技を本番でしたいという思いがあったからでしょう。練習したものをどれだけ完璧にできるか、いかにそこに近づけるか。分かりやすくいうと、審査員全員が10点満点を出す演技を目標にしていました。

国内のバトン界においても長らくトップクラスの選手として活躍していたが、いいことばかりではなかった。無敵であるが故のつらさもあった。
心無い声も

 21歳で世界大会で初優勝して、その後も世界大会に出続けていたのですが、これまでは金メダルを取って辞めるという選手がほとんどでした。年齢的にも大抵の人が大学を卒業するくらいの歳に辞めていました。でも私は辞めるつもりはなかったので、「あの人はいつまで現役でやっているのか」といったような声が耳に入ることはありました。

 私がいなくなれば、世界大会出場への席がひとつ空きますからね。でも別に「この席は私のだから誰にも渡さない」と主張しているわけでも、私専用の特別枠があるわけでもなくて、他のみなさんと一緒にバトンが好きで出場しているだけなんですよね。私よりも他の選手の方が上手だったら審査員はそちらを選ぶでしょうし。

 そういう声が聞こえてきたときはやるせない気持ちになることもありましたが、あるときずっと習っていたバレエの先生に、「あなたが辞めたことで、世界大会に出場できるより、あなたがずっと続けていて追い越せて出場できたときの方が、その人はうれしいに決まっている。だから、そんなこと気にする必要はない」と言われたんです。ありがたいお言葉でした。

父親の反対がつらかった
 

 もっともつらかったのは、23、4歳のころ、父親にバトンを辞めなさいと真剣に言われたことです。普通この年齢にもなると社会人になって自立しているのに、私はいつまでも実家に頼っていたので、心配だったのでしょう。また、後進に道を譲るべきだ、というようなことも言われました。

 この頃の収入は、ファーストフードや露店でのアルバイトと、バトン教室でのお手伝い、イベントなどへの出演で頂くものでした。実家に住ませてもらっていたのですが、それでもギリギリの生活でした。世界大会に出場する際、交通費や宿泊費などすべて自腹なので、年に一度の世界大会に出ると一年分の蓄えがすべてなくなってしまうんです。数年間はその繰り返しでした。それでも現役を辞めたくなかったのは、バトンがどんどんおもしろくなり、まだ全部やりきっていないという思いがあったからだと思います。

 やはり世界大会がバトンの競技大会としては最大ですし、そのときに味わえる感動も一番大きいんです。現役選手である以上、「世界大会に出てどれだけのパフォーマンスができるか」ということが最大の目標になるわけですが、そこで自分が一番やりたいことができていないという思いがあって。だからまだ辞めたくなかったんです。

 現役でい続けること自体がつらいということはなかったです。何か嫌なことがあっても続けるのが普通だと思っていたのでしょうね。だから私自身は続けることに関して悩んでなかったんです。私はまだ続けたいのに真剣に辞めなさいと言われたことに悩みましたね。家を出て暮らす収入はなかったですから。

 悩んだ結果、辞めろと言われた次の日に、その時の収支を考え、渡せるだけの金額を父に食費として渡しました。それからトワルアイの先生に相談して、お手伝いするということとは別にもう少し踏み込んだ仕事をいただけることになり、それを父に話したら、納得してくれました。

バトンをもっと広めたいという使命感
 

 これを乗り越えた後は、特につらいことはなかったですね。競技バトンの現役選手として30歳を越えても全日本や世界大会に出場し続けていたのですが、さすがにそれだけ長くやっていると、周りも「しょうがないかな」という目で見てくれるようになっていたのだと思います(笑)。

 ほかには所属していたトワルアイの先生が、世界でおそらく初めてのバトンのショーを開催したので、それに出演しました。テレビで宣伝しているような大きなショーじゃなくて、2日とか3日の小規模なショーでした。だから、それで収入を得ることはほぼ不可能どころか、持ち出しになっていたのですが、それでも出演していました。

 なぜかというと、バトンを世間にもっと広めたいという気持ちが強かったからです。競技バトンは特殊なので、大会には関係者ばかりで一般の人はなかなか観に来てくれません。でも(バトンの)ショーであれば、もっと広い世界の人が観に来てくれて、バトンのことを知ってもらえるきっかけになるかもしれないし、バトンを始める人もそこから出てくるんじゃないかと思っていたんです。何かをしないと前に進みませんからね。バトンを広めたいという思いは国内でバトンをやっている人なら全員持ってると思いますよ。

 確かに生活は相変わらずギリギリでしたが、何とかなるだろうと思っていたので、30歳近くになっても今後の将来について、それほど悩んではいなかったですね。

 

30歳近くまで、バトン教室での指導や小さなショーの出演料をコツコツ貯め、世界大会に出場するという生活が続いた。世界大会には通算15回出場し、金メダル7回、銀メダル2回、銅メダル3回を獲得。まさに女子バトン界の女王として君臨し続けた高橋氏だったが、国内ではバトンで生活する道はほとんどなかった。そんな中、運命を変えた最初のきっかけは海の向こうからやってきた。


 
第1回 2008.8.4リリース 6歳からバトンの道へ 世界的バトントワラーのあゆみ
第2回 2008.8.11リリース 驚異的な強さで世界女王に 壁を乗り越え継続
第3回 2008.8.18リリース 地道な努力で開けた夢への扉 憧れのシルク・ドゥ・ソレイユへ
第4回 2008.8.25リリース 世界最高峰のショーの舞台へ ストイックなまでのプロ意識
第5回 2008.9.1リリース 原動力は終わりなき成長欲求 いずれは他人のために働きたい

プロフィール

たかはし・のりこ

1970年横浜生まれ。6歳からバトンをはじめ、全日本選手権には小学3年生で小学校低学年の部に出場、5位入賞。18歳の時トゥーバトンで初優勝して以降、グランドチャンピオンに輝くこと17回。全個人種目を制覇。同大会連続25回出場。世界選手権にも通算15回の出場、金メダル7つ、銀メダル2つ、銅メダル3つを獲得。この記録は現在も女子では破られていない。2004年にシルク・ドゥ・ソレイユと契約。シルク史上最大規模を誇るショー「KA(カー)」に主役級の役柄として抜擢。2004年11月からショービジネスの本場・ラスベガスのMGMグランドホテル内の特設会場で出演開始。これまで出演回数は1500回を超えた(2008年現在)。ショー中、ソロの演技を披露できる機会を与えられているのは高橋氏のみ。

【関連リンク】
●高橋氏ブログ
  のんのん太陽の下で

●シルク・ドゥ・ソレイユ

1984年にカナダで生まれたサーカス集団。フランス語で“太陽のサーカス団”(CIRQUE DU SOLEIL)という意味。40カ国・3,500人が在籍、年間チケット売上4億5,000万ドル超。サーカスと大道芸を融合させた新しいエンターテインメントショーを公演しており、全世界で4,000万人がシルクのショーを最低1回は観たといわれている。日本でも『サルティンバンコ』、『アレグリア』、『キダム』などは、大勢の観客を集めている人気のショー。2008年6月には東京ディズニーリゾート内に日本初の常設劇場「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」が完成。10月1日から新作ショー「ZED(ゼッド)が開演される。

●KA(カー)日本語版
英語版

シルク・ドゥ・ソレイユ始まって以来、最大規模といわれるショー。ラスベガス・MGMグランドホテル内の専用劇場は、総制作費187億円、観客席1951席。165人のスタッフと90人の出演者が毎日2回のショーを行っている。舞台装置も圧巻で、特殊装置を備えた広さ70畳、重さ175トンの巨大な舞台が自在に動き、さまざまなものに姿を変える。そんなとんでもない舞台で演技を繰り広げるアーティストはまさに超人。また、シルクの中で唯一ストーリーをもつショーとしても人気を博している。

●トワルアイバトン教室
高橋氏を世界トップクラスのバトントワラーに育て上げたバトン教室。旧・高山アイコバトンスタジオ。

 
お知らせ
 
魂の仕事人 書籍化決!2008.7.14発売 河出書房新社 定価1,470円(本体1,400円)

業界の常識を覆し、自分の信念を曲げることなく逆境から這い上がってきた者たち。「どんな苦難も、自らの力に変えることができる」。彼らの猛烈な仕事ぶりが、そのことを教えてくれる。突破口を見つけたい、全ての仕事人必読。
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