その頃、バトンに関してもこの先どうしようかと悩んでいました。バトンが歯を磨くのと同じような、日常的なことの一部になっていたのです。もちろん競技バトンの選手として練習をしたり大会に出たりしていたのですが、実力もそれほど伸びていたわけではなく……。それで「このままだらだらと続けていていいのかな」と思っていたのです。
そんなことを思っていた88年、高3のときに、日本でバトンの世界大会が開催されることになりました。せっかく日本で開催されるので、世界大会に出場した経験のある選手が集まって、デモンストレーションのようなことをしようということになったのです。
そのイベント企画の中心となっていたのが当時の「高山アイコバトンスタジオ」、現在の「トワルアイバトン教室」(以下、トワルアイ)でした。それまで所属していた教室は、私が最高齢でそのほかは小さい子供たちが多かったのですが、トワルアイには同年齢の人も、私より年上の人もいらっしゃいました。こういう教室なら今までと違った形でバトンに接することができ、充実するかもしれないと思ったのです。
また、それまでバトンを教えていただいていた近所のバトン教室の先生もだんだんお子様のことなどでお忙しくなってきて指導する時間が十分に取れなくなっていました。そういったこともあり、小学生のころから十数年教えていただいた教室から、思い切って高校を卒業した翌日に、トワルアイに移籍することにしました。これが結果的に私の運命を変えることになったのです。
この時期には、これまで私を育ててくれたバトン界に何か恩返しをしたいという強い思いもありました。そのうちのひとつとして、バトン教室の先生になって後進を育てていくという道が考えられました。
しかし、私はバトンの技術を教えること自体は好きなのですが、バトンの振り付けをするのがあまり好きではないのです。恥ずかしがり屋で、表現をするのがあまり得意じゃないので。それがバトンの先生になることを考えたときに、すごくプレッシャーだったのです。振り付けを考えて、教えるということがバトンの先生の重要な仕事のひとつですから。だから何かほかのことでバトン界に恩返しできないかと思っていました。 |