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魂の仕事人 第29回 その三
交通事故鑑定人 林 洋
大学卒業後、6社を渡り歩き、交通事故の工学鑑定を行う「林技術事務所」を立ち上げた。このとき53歳。不安もあったが、生きがいとしての仕事の醍醐味に心は奮い立った。そして独立して間もなく業界のトップランナーへと駆け足で上り詰めていった。  
 

ホームレスの不安を乗り越えて

 

 交通事故鑑定人として独立することには、もちろん、不安はありましたよ。日本自動車研究所時代に交通事故調査グループのリーダーを務めていましたし、警察から頼まれて交通事故鑑定も少しはやっていましたから、ある程度は、この世界のことを知ってはいましたが、交通事故鑑定の専業でどのくらいやっていけるかは皆目見当がつきませんでしたから。

 けれども、交通事故は絶対になくならないし、世間にはエセ鑑定人がうようよいるということはわかっていましたから、厳正中立の正しい判断を下す鑑定人の潜在需要は必ずあるという確信はありましたね。「よーし、交通事故鑑定を自動車の技術屋として熱く生きて来た俺の集大成にしてやってやろう」という気分になりました。予測のつかない海に漕ぎ出す時には、こういう「志もどき」に取り付かれるということは大変有効な鞭撻法であると思いますね。正直、交通事故鑑定を私の最終的な生き甲斐の対象にしようと思いました。

不労所得の砦を用意する
 

 独立する際、事業原則として、「目先の金のために依頼者の注文に合わせる、注文鑑定は絶対にやらない」ということを心に決めていました。これまでそういう鑑定を嫌になるほど見てきたので、自分だけは注文合わせのエセ鑑定は絶対にやらないぞと。とはいっても最低限の生活は確保しなければなりません。それには交通事故鑑定の料金収入がゼロになっても、納得がいかない鑑定依頼は断ることができる経済的な体制を作ることが必要です。

 私は「わが処世の秘訣」を書いた本多静六の信者で、「志を貫くには世間に右顧左眄することなく暮らしていけるだけの不労所得の砦を作らなければならない」という本多先生の意見に強く共鳴していました。そこで、あらかじめつくばの中心地に買ってあった小さな土地に、銀行から金を借りて八室の貸し店舗・事務所ビルを建て、自分の事務所もその中に入れて、そこからのテナント家賃収入で生活の最低基盤を固めることにしました。ちょうどその時期に隣にスーパーが開業したという好条件も重なり、テナントが入り、家賃収入だけで食べていけるようになりました。これで、自分の気持ちに正直に、生き甲斐本位で鑑定仕事に打ち込める環境が整ったわけです。

むち打ち症詐病対応鑑定で波に乗る
 

 私の人生にはピンチと幸運が交互にやって来るという特徴があるようです。もっとも、ピンチの方は自分でつくり出している感が否めませんがね(笑)。

 独立して2年目に、損害保険業界の周りにある調査会社からの要請で、むち打ち症詐病対策の鑑定依頼を受けることになりました。当時、マスコミが喧伝したことがきっかけになって、全国的にむち打ち症を訴える人が異常発生していました。

 むち打ち症には、1.他覚的所見がない、2.レントゲンなどの客観的な発症の認定方法がない、3.主訴以外に判断のしようがないという特徴があります。そういうわけで、昔の当たり屋に相当する、保険金詐取狙いの詐欺手段にむち打ち症が盛んに利用されるようになったんです。バンパーに傷がつかない程度のコツンと軽く当たったくらいの衝突事故でも、自称・重症のむち打ち症患者が発生していました。

 当時の詐病患者のマジョリティの三羽烏はヤクザ、40歳以上の水商売関係の女性、タクシーの運転手といったところでした。損保会社や裁判所も怪しいとは思いながらも、当時はその真偽を証明する方法がなかった。また、町医者も、むち打ち症は健康保険適用外だから高い治療費が取れるということで、安易に診断書を出す傾向がありました。まさに詐欺師天国の状態です。

 当時は、むち打ち症の異常発生によって、損害保険業界は経営が危ぶまれる状態に近付いていたようです。それで損保会社関連の調査会社から、むち打ち症の仮病を使って保険金を請求してくる詐欺師に対抗する鑑定対策を求められたというわけです。

猛勉強して独自の鑑定メソッドを確立
 

 そこで私は医学、人間工学、衝突実験などの学問領域から多角的に情報を集めてきて短期間で猛勉強を始めました。そして衝突時に頚部にかかる衝撃と頚部損傷との因果関係を定量的に評価するロジックを構築して、受傷限界値と比較するという方法、これを四通りのクライテリアで吟味するという独自の鑑定評価メソッドを考案しました。これと、この時期になされた鑑定論争の経過は、「工学鑑定から見たむち打ち症裁判の研究」(技術書院)に詳しく書いてありますから、興味がありましたらそちらをどうぞ。日本のむち打ち症騒動は、いわば遊民社会の知恵の問題で、江戸時代の駕籠乱用事件に類似するというのが私の解説で、これについては『むちうち症入門』(自動車公論社)で紹介しています。

 こうして新たに構築したロジックをベースにして、主観的にも本当のむち打ち症とはいえない事案に限って、むち打ち症と事故との因果関係を否定する鑑定を発行しました。それまでには、この問題について、定量的な議論、安全率対比的議論がなされることはなかったのです。

潜在需要を掘り起こして第一人者に
 
 

 そうしたら全国の損害保険会社から鑑定依頼が殺到する状態になりました。ピーク時には月に80件を超えるむち打ち症対応の鑑定書を発行していましたし、調査会社から研修を兼ねて手伝いの要員が派遣されて来ていました。この頃に、法学部の教授が書いているむち打ち症裁判についての著書によると、むち打ち症の発症を否定する判決の75%が、林鑑定を採用しています。自動的に、この時期の私の年収は1億円を超えていました。

 しかし私は、むち打ち症は社会病理学的現象であるから、5年もすれば必ず沈静化するはずだと予言していました。そしたらやはりその通りになりましたね。現在では、むち打ち症の鑑定依頼はほとんどありません。おもしろいのは、この犯罪マーケットから真っ先に引いたのは、組織暴力団だったことです。やはり彼らはプロなんだなと妙に感心をしました。プロだからこそ、コスト、抵抗の多い犯罪商売はさっさと見限るということですな。しかし、この間には幾度かヤクザから脅しの電話がかかってきました。その度に自分は間違ったことをしてはいないんだということを再確認していました。ヤクザにとっても、小遣い稼ぎ的な軽事業で、死活の問題ではなかったのでしょう。直接、身体に危害を加えられるということはありませんでした。

 この経験を通して、熟年期を生涯現役で熱く生き続けたいという人たちに申し上げたいことは、世の中に埋もれているさまざまな潜在需要を掘り起こすことによって、さまざまな仕事が生まれる可能性があるということです。また、それは広い意味での正当な需要と供給との関係をスムーズ化することでもありますから、世の中のためになる仕事をすることにもつながるのだということです。しかし、それをやるには人の真似をしてもダメ。潜在需要にダイレクトに応える己れ独自の新構想、新製品を創造しなければいかんということです。

 むち打ち症詐病対応鑑定の経験は、私にこのことをしみじみと痛感させる出来事であったといえます。

むち打ち詐病事故事件の鑑定手法を確立したことで、林氏の評価は急上昇、独立後数年で確固たる評判と信用と経済を確立した。むち打ち詐病事故の波が収まった後も鑑定依頼は継続し、瞬く間に業界の第一人者となった。

交通事故鑑定の醍醐味
 
林氏が実際に行った交通事故鑑定の一事例
 

 交通事故鑑定の醍醐味は一言でいえば、謎解きのおもしろさですね。交通事故は人が起こす出来事ですが、必ず同時発生的に物理現象が起こります。衝突、転落、車体や人体の破壊等ですね。

 事故が起こると早い時期に警察が実況見分をして、ブレーキ痕とか、車の破壊状態とか、血痕とかの物的証拠、物理現象の結果を観察して実況見分調書に記録します。この事故現場に残された証拠と物理法則、自動車の運動特性・構造特性、人間工学的知識等との整合を踏まえながら、「この事故は、どのように起こったのか」と事故の発生形態を推論するのが、工学鑑定です。

 人間工学的知識としては、例えば知覚反応時間があります。人が事故を起こす前には、必ずこれがあります。人が危険情報を感知してから反応して、手足を動かして衝突回避の行動を起こすまでには、ある長さの時間がかかりますが、交通事故ではこの遅延時間が非常に重要な意味を持ちます。例えば、お酒を飲んでいた場合、この時間が長くなる。それ次第で事故の誘因、過失責任が、誰にどれだけあるかを客観的に検証できます。自動車研究所時代には人間工学や心理学の専門家も多様にいましたから、そういう人たちとの交友、聞きまわりなど、機械工学以外の人間工学的な知識との遭遇が大変役立ちました。

 物理法則には100パーセントの再現性がありますから、工学鑑定の方法が正しく適用されれば、非常に高い確度で事故の真相が推理されることになります。ここが人為の結果である殺人や詐欺などの犯罪の証明と大きく違う特徴といえます。自動車メーカー時代の実験エンジニアの仕事も問題発見→真相究明→問題解決だったけれど、交通事故の鑑定は、これに人間が絡み込んだ人間・機械系の問題発見→真相究明のタスクであるといえますね。しかし、思考体系は酷似しています。

交通事故は事件の後から悪意が始まる
 
 

 私は、交通事故問題の性質を端的に指し示すために「一般の犯罪とは異なり、交通事故では事件の後から悪意が始まる」とよく言っています。起こそうとして事故を起こす人はいません。偽装の作り事故は別にして、交通事故はほとんどすべてが過失犯罪です。よそ見をしたり、ちょっとした不注意で事故を起こしてしまうのです。でも相手が死んでしまうと、「死人に口なし」を奇貨にして、嘘をつく人が出てくる。しかし、交通事故は同時発生的にドラスチックに物理現象が起こる出来事ですから、この面からの工学鑑定の傍証によって、後付きの嘘がばれてしまうことが、しばしばあります。

 ただし、事故現場の物証が正しく検証されないと真実を捻じ曲げてしまうことにもなりかねません。交通事故は実験室内で行われる実験とは違って、あらかじめ何が起こるかがわかっている現象ではないので、ときには、実況見分に記録される事故現場の証拠の中に誤解や嘘が紛れ込んでいることもあります。この難点をカバーするには、なるべく多角的な検証をすることが大切ですね。そうすると、誤解や嘘の証拠が弾き出されてくることがよくあります。

 もう一つ大切なことは、単純明快さですね。私はこれをコロンブスの卵と言っています。例えばボクシングの試合の場合には、ボクシングのことを一番わかっている冷静な人、つまりレフェリーが勝敗の判定をします。しかし、裁判はそうではない。物理や数学が嫌いだから若いうちからあの世界に入ってしまい、以来、薄汚れた世間との交歓を絶って、高いところから神に最も近い人間という自覚で、愚かな世俗の人間を見下して一方的に評価をして来た人、しかも、ずっと対立的な議論(その一方は、必ず、極端な詭弁です)だけを聞いて、ケーススタディ的に勉強して来た人、つまり裁判官の心証に訴えなければならないのですから、コロンブスの卵的な単純明快さが非常に大切なのです。

鑑定の仕事で一番大切なこと
 

 独立する際に立てた「依頼者の要望に沿って真実を捻じ曲げる注文鑑定は絶対にやらない」という誓いはもちろんこれまで守り通してきましたし、今も、この先も同じです。

 具体的な対応の仕方は、鑑定を依頼されると、まずは鑑定資料を見せて下さいと言います。その上で3通りの答えかありますと伝えます。一つは、確実に有利な鑑定結論が得られるから、鑑定することを積極的にお勧めしますという答え。二つ目は、ここまでの蓋然性は言えるから代理人の意見も聞いて、それが訴訟上有効であると判断されるならば、限定的に鑑定をお引き受けしますという答え。三つ目は残念ながら、あなたの主張を工学的に論証することは不可能であるから、鑑定はお断りしなければなりませんという答えです。

修羅場だったことは一度もない
 

 交通事故鑑定人は鑑定書を発行するだけではなく、裁判所に証人として出廷し、対立する側と鑑定の正しさを巡って争います。一般的に、交通事故鑑定人にとってこの証人尋問の法廷はまさに修羅場といえると思います。法廷で行われている議論は、率直に言ってどっちの主張が正しいかというケンカですからね。主尋問では、鑑定証人はこちら側の代理人との掛け合い問答で裁判官に対して自分の鑑定はいかに正しいか、合理的かということを力説します。しかし、その後には必ず反対尋問があって、向こう側の代理人が、あんたの言うことは間違っているという露骨な反論をさまざまに仕掛けてきます。鑑定はこれに耐えるものでなければなりません。

 私の場合には、自ら納得が行かない鑑定は最初から引き受けていませんから、立ち往生する恐れはそもそもありません。むしろ向こうの代理人にわざと深追いをさせておいて、適当なところで反撃に転じ、彼の弁論の矛盾を指摘して、楽しみます。「聞かれたことだけに答えろ!」などと、弁護士や検察官が沸騰状態になるのを見るのが、何ともいえずおもしろいですね。だから、私にとって証人尋問が修羅場であったことは一度もありません。ただ残念なのは、精を尽くして説明しても、裁判官に強い先入観があって、私の鑑定結論が否認されてしまう場合ですね。こういうケースも少なくありません。

 

あくまで自らの信念に基づいて交通事故鑑定に取り組んできた。しかし世間にはいい加減な鑑定をする者も多いという。そんな似非鑑定士を林氏は許さない。そこには交通事故鑑定人としての譲れない矜持があった──。

次回の第4回では交通事故鑑定人としての覚悟、裁判の異常性などを熱く語っていただきます。乞うご期待!


 
第1回 2008年2月18日リリース 6度の転職を経て天職に 放浪のすすめ
第2回 2008年2月25日リリース 5社目で交通事故鑑定の世界へ 53歳で独立
第3回 2008年3月3日リリース 真相究明が仕事の醍醐味 依頼者のために戦う
第4回 2008年3月10日リリース 交通鑑定人の究極の覚悟 志をもって生きる
第5回 2008年3月17日リリース 趣味や勉強では魂は燃やせない 一生仕事人であり続けたい

プロフィール

はやし・ひろし

1931年、東京生まれ。77歳。交通事故鑑定人。船の機関士、教師、自衛隊、自動車メーカーの技術者など6度の転職を経て、53歳のときに自動車事故の工学鑑定を行う「林技術事務所」を設立。以降、数千件の交通事故鑑定書を作成、交通事故鑑定学の学問体系の確立と実行に努める。77歳の現在も現役の交通事故鑑定人の第一人者として活躍中。「実用・自動車事故鑑定工学」など著書多数。日本技術士会のプロジェクトチーム「科学技術鑑定センター」の名誉会長も務めている。

【関連リンク】
■交通事故鑑定人 林洋のページ

 
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