キャリア&転職研究室|魂の仕事人|第27回 心臓外科医 須磨久善-その2-医者は患者のためにある

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第27回
須磨久善氏インタビュー(その2/全5回

須磨久善氏

急がば回れで世界初の手術に成功
「覚悟」と「準備」で難手術に挑む
「挑戦」はもってうまれた役回り

心臓外科医須磨 久善

大学卒業後一般外科の経験を積んだ須磨氏は、4年後、心臓外科に「挑戦」。いよいよ心臓外科医としてのキャリアをスタートさせた。1984年、アメリカのユタ大学の心臓外科が史上初の人工心臓完全埋め込み手術に成功すると、その手術を行った医師に直接教えを請うためにユタ大学へ留学。半年間、心臓手術の本場で一流の医師から最新の技術と知識を吸収した。そして帰国して2年後、36歳で世界初の心臓バイパス手術に成功。これにより須磨氏の評価は飛躍的にアップ、心臓外科医としてのキャリアも大きく変わっていった。

すま・ひさよし

1950年生まれ、57歳。神戸市出身。「神の手をもつ男」と世界から賞賛・尊敬されている心臓外科医。これまで手がけた心臓手術は5000件超。数多くの患者の命を救うだけではなく、数々の新しい手術にチャレンジ、その後も改良を重ね成功率、生存率を上げている。心臓外科医としてだけではなく、心臓血管研究所のスーパーバイザーとして、病院全体のレベルアップを目指し尽力中。 また、教育の一環として小・中・高校生を病院に招待し、実際の手術を見学させる「病院見学会」を実施している。葉山ハートセンター時代からこれまで見学に訪れた子供たちは5000人以上。 医療関係者のみならずビジネスマン・経営者向けの講演、「プロジェクトX」、「課外授業−ようこそ先輩」(NHK)などのテレビ出演、ドラマ『医龍』(フジテレビ)の手術監修など、多方面で活躍している。主な経歴

心臓以外を学んだ4年間が 世界初のバイパス手術を成功させた

当時、心臓の冠動脈バイパス手術を行う際、バイパスとなる血管には足の静脈が使われていました。でもバイパスした血液が流れるのは動脈です。動脈の血圧は静脈の10倍も高いので静脈血管では心臓から送り出される血圧に耐えきれなくて、長くはもたなかったんです。

やはり動脈のバイパスには動脈血管を使った方がいい。しかしそのころ静脈以外でバイパス用の動脈血管として使えるのは胸の内胸動脈しか選択肢がなかったんですが、他に適している丈夫な血管はないかなと考えたところ、胃の大網動脈を思いついたんです。

試行錯誤の末(※1)、胃の大網動脈を使ったバイパス手術を行ったら、とても具合がよくて、数年たっても血管がつまることもなく、もちろん血管を取った胃も正常。手術した患者さんは健康を取り戻しました。

これも虎の門病院時代に胸部外科以外のいろんな科を経験したおかげなんです。特に3年目には胃がんの手術をかなり経験できたのが大きかったですね。この経験で胃の構造、胃の動脈の特性などの知識を身につけられましたから。

それまでなぜ胃の大網動脈が使われていなかったか? 横隔膜を境にして、上の肺や心臓は胸部外科、下の胃腸、肝臓などは腹部外科というふうに領域が分かれているんです。だから当時の医師は、胸部外科が腹部外科の領域にまで踏み込んで、胃の血管をもってきて心臓につなぐなんてことはあまり考えられなかったと思うんです。

でも僕の場合は、幅広い知識・経験をもった心臓外科医になるために、いろんな科で勉強していたので、そういう発想ができたんでしょうね。そもそも「患者さんをよりよくするため」に医者をやってるわけですから、科の違いなんて全く関係ないんですよね。

※1 試行錯誤の末──胃の大網動脈を使うことを思いついてから実用までにはかなりの時間と手間を要した。まず放射線科の教授から造影画像を100枚借り、バイパス血管として使える動脈を選定。その後病理学の教授にお願いして、届くかどうかを測定、さらに消化器外科の教授に動脈バイパスとしてのクオリティを保持しているかを確認。そして実際に手術を施せる患者の登場で実現した。

須磨氏の考案した胃の大網動脈を使ったバイパス手術は世界各国で反響を呼び、世界中に広まっていった。その後心臓病治療で有名な三井記念病院に招かれ、心臓血管外科部長に。在任中の1994年にはローマ法王も入院したことのあるローマ・カトリック大学心臓外科客員教授に招聘され、心臓病の手術、スタッフの指導に当たると同時に、モンテカルロのモナコ心臓センターのコンサルタントも兼任することになる。そして2年後の1996年、ローマから帰国した須磨氏は日本初となる難手術・バチスタ手術に挑んだ。46歳のときだった。

日本初のバチスタ手術に挑戦

ローマで客員教授をしていたころ、ヨーロッパでもバチスタ手術(※2)が話題になっていて、ローマの友人の医師がイタリアで最初のバチスタ手術を成功させました。私自身もバチスタ手術に非常に強い興味を持っていました。日本では心臓移植手術が事実上不可能だったので、日本でこそ必要な手術だと思っていたんです。

写真:須磨氏が公開手術等で海外の病院に赴く際に持参する、通称「須磨セット」。すべてが須磨氏のためだけに作られたオーダーメイドの手術道具一式。やはり海外ではメスやハサミひとつとって仕様が異なる。ミリ単位の正確さが求められる心臓の手術においては自分だけの道具は必要不可欠なのだ

写真:鉗子(かんし)(写真左)とはさみ(写真右)。血管を挟んだり切ったりするだけに、こんなに小さい

帰国後、バチスタ手術の依頼が来た当時は、心臓外科医になって20年目で、その間に国内外で心臓手術の経験を数多く重ねていました(※3)。バチスタ手術に関する研究もしていましたしね。だから自分の中にこれまで積み重ねてきたものがものすごくあったわけです。それはちょうど氷山みたいなもので、海面上にあるのが山のすべてではなくて、海面下にはその何百倍、何千倍のものがある。それが自信の裏づけになるんです。

※2 バチスタ手術──ブラジル人のランダス・J・V・バチスタ博士が考案した画期的心臓手術。正式名称は「左室縮小形成手術」。肥大した心臓の3分の1程度を切り取って縮小するという手術で、1990年代初頭から行われていたが、当初は柔らかい心筋を縫い合わせる高度な技術力を必要とすることと、成功率が約50%の難手術だったため、あまり広がらなかった。しかし1990年代の半ばには有用性が認められ、注目を集めるようになった。

※3 国内外で心臓手術の経験を数多く重ねていました──1990年代にヨーロッパやアメリカ、そしてアジアの各国から心臓バイパス手術を依頼され、10年間で約20カ国を回った。中でも94年から96年の二年間はローマに住んでいて、そこからフランスやモナコ、さらにはエジプトまで出かけていって手術をしていた。

自分ひとりでやってるわけではない

胃の血管を使ったバイパス手術のときもバチスタのときもそうですが、初めての手術に挑んでいくといっても、僕一人でやるぞといってやったわけではないんです。患者さんが僕に手術を頼んできたし、病院も僕に手術をしなさいといってくれたから挑戦できたんです。

バチスタ手術のとき、もちろん患者さんには事前に僕がその手術を初めて行うこと、どんな手術なのか、手術しても助かる可能性が高いとはいえないことを説明したんですが、それでも僕に手術してほしいとおっしゃってくれた。そうなると後は自分が受けて立つ覚悟があるか、準備は整っているかというだけの話なんです。それで両方とも大丈夫だと思えるレベルまでいけたので、手術を受けて立つことにしました。

もちろん新しい手術に挑むときはプレッシャーもあるし、緊張もしますよ。しかし新しい手術とはいえ、行き当たりばったりで行うわけじゃないんです。いい答えを出す=成功させるために何が必要なのか、どういう方法があるか、実行するときにどんなリスクがあるか、そのリスクを最小限にして成功率を高めるにはどうすればいいのかなどをまずはとことん考え抜きます。手術の前にガードを固めるという感じです。

国内初となったバチスタ手術のときは、海外でバチスタ手術を行ったことのある医師を2人呼んで手術チームに入ってもらいました。強力なチームを組んで、初めてだけどリスクを極力少なくするような準備をした上で、覚悟を決めて手術に臨んだんです。

こういったことが本当の「挑戦」だと思います。ただ闇雲に一か八かでやるのは「挑戦」とはいえませんよね。

万全の準備を整え、覚悟を決めて挑んだバチスタ手術だったが、結果的に患者は亡くなってしまう。手術自体は成功したが、その後肺炎を併発してしまったのだ。しかしマスコミや世間からは時期尚早の声が上がり、須磨氏と病院に厳しい風が吹き付けた。だが須磨氏は2例目のバチスタ手術への挑戦を決意する。次も患者の命を救えなければ信用は失墜し、須磨氏も病院も絶体絶命の窮地に陥る。そんな背水の陣とも思えるような状況の中で須磨氏は──。

後悔は微塵もなし

僕らの仕事は命を助けることが最終的なゴールです。だからバチスタの手術自体はうまくいったとしても、手術した人の命が助からなければ結局うまくいかなかったということにしかならないんです。だからとても残念だし、つらかったですね。

かといって、手術をやらなければよかったとは思いませんでした。患者さんはそのまま放っておいたら確実に数カ月後には亡くなるという状態でしたから、本人も奥さんも助かるかもしれないというひとつの希望が見えたことはとてもうれしいとおっしゃっていたし、それに対して手術を受けて立ったことは間違ってはなかったと今でも思っています。だから手術をしたことの後悔は全くないですよ。ただ助けられなかった結果に対する逆風というか重荷を背負っていかなければならないような仕事を、自分が選んだんだなとは改めて思いましたね。

「失敗したらやめる」という選択肢は 最初からない

確かに1例目でうまくいかなかったとき、時期尚早だったとか手術をするべきではなかったとか、社会やマスコミからは厳しい反応がきました。でもそういうことも想定内ですから。初めての手術をやってうまくいかなかったら、敵に回る人は増える。それが世の中ってもんでしょ? 

だけどそれで嫌になって二度とバチスタ手術なんてしないとは思いません。「1例目の患者が亡くなった後に、もうバチスタ手術をやめようとは思わなかったんですか?」ってみんな聞くけど、そんなもん思いませんよ。「1回や2回転んだからもうやめる」という覚悟では、国内で誰もやったことのない新しい大きな手術はできませんからね。そういう答えはバチスタ手術の1例目を受けて立つと決めたときから選択肢の中に入ってないんですよ。

なぜなら、初めての手術で成功する確率を少しでも高めていくために可能な限りぎりぎりまで学んだり、準備したりした上で、よし成功させるぞという覚悟で挑むわけだから、最初の1例目が、たとえどんな理由であっても、うまくいかなかったらやめます、2例目はやりません、とはならない。そんな覚悟はありえないんですよ。

うまくいかなかった原因が、手術をやり損じたとか、準備不足だったとか、自分がやっておけたはずのことをやらなかったというのであれば話は別ですが、自分にできる最大限のことをやった上での結果なので、やめるという選択肢はありえないわけですよね。

失敗しても継続することが大事

当然、1例目のバチスタ手術に挑んだ僕と、200回のバチスタ手術を経験してきた今の僕とでは全然違います。今の自分であればもっとリラックスして手術に臨めただろうし、磨き上げた技術などでもっとリファインされた手術ができたでしょう。しかし、その1例目があったからこそ200例目があるわけです。だから失敗しても継続するということはとても大事だし、その過程で学んでいくことでしか医療も自分もより高めていけないんですよね。外科医なら誰もが知ってることだし、他の仕事にもいえるんじゃないですかね。

ただ人の命が懸かっているという点で、もちろん失敗は許されないという重圧は感じます。それは1例目だろうが200例目だろうが同じで、だからこそ可能な限りの準備をして手術に臨むわけです。

しかしすべての命を助けられるわけじゃない。特に新しく、困難な手術はなおさらです。だから助けられなかったつらさや重さに耐えられない、あるいは最初から耐える覚悟がない人はこういう手術はできないですよね。

1例目から3カ月後の1997年3月、プレッシャーの中で2例目のバチスタ手術が行われた。結果は成功。患者の命を見事に救った。須磨氏は新しい手術、難手術にばかり挑戦しているような印象を受けるが、そうではないと断言する。

患者の意志と病院の理解で 2例目に挑戦

そもそも最終的に手術を受ける・受けないを決めるのは患者さんなんですよね。1例目に手術を受けた方が亡くなったということは日本国中に知れ渡っているわけですから、患者さんが、「須磨の手術なんて受けたくない」といえば、いくら僕がやりたいといってもできません。

しかし、それでも僕に手術してほしいという患者さんが来て、僕自身の判断でこれなら勝算あると思ったら手術をやるという方向で動きますよね。

だからあとは病院がそれをよしとするかしないかで、やっぱり病院内でも賛否両論はありましたよ。次も失敗したら病院としても社会的信用を失って致命傷になりかねないですからね。でも、倫理委員会や手術を受ける患者さんの検討会などで議論した結果、「2例目も手術してください」ということになったわけです。だから反対する病院を僕がやらしてください、お願いしますと説得して2例目をやったわけではないんですよね。

医者は患者のためにある

結局、手術を求めている患者がいるから手術ができるわけで、いなければ逆に病院が賛成で2例目も絶対にやりましょうねといっても患者さんがひとりも来なかったらできないわけですよね。この2例目に象徴的なことなんですが、結局、医療というのは、患者さんがいて初めて成り立つわけです。病院があるから病気が発生して患者さんが来るわけじゃない。

だから原点というか本来何が一番根幹にあるのかというと、医療に関しては患者さんがまず第一。それ以外何ものでもありません。医者、医療は患者さんのためにある。この原点から視線を外さずに自分に何ができるのかを考えていけば、「何をやるべきか」の答えは自然にすっと出てくると思います。

そういう役回り

新しい手術ばかりに挑戦しているのはなぜか? いや、僕の場合は初めての手術に挑む場面が他の医師より少し多いというだけの話で、同じことをやってる医師は世の中にたくさんいますよ。たまたま僕が目につくような手術をいくつか行ったことに関しては、そういう巡り合わせなんだなあと思いますけどね。

それはもって生まれた役回りなんじゃない? そうとしか言えません。どうして僕なんだろうと思うことはありましたよ。でも深く考えても答えなんか出てきませんから(笑)。そういう役回りなんだろうなと思うのが自分にとっては分かりやすいので、そう思って納得しています。

世界初の心臓バイパス手術や国内初のバチスタ手術など、病に苦しむ患者のために、未知の難手術に挑戦し、しかも高い成功率を誇っている須磨氏。なぜそういうことが可能なのか──。 次回は、外科医にとってもっとも重要なのはどんな能力なのか、そして「神の手をもつ」と呼ばれるにいたるまでに行った須磨氏ならではの修行に迫る。

●主な経歴

1964年 中学2年生のときに「人のために何かをして喜んでもらう仕事がしたい」と医師を志す。
1968年 大阪医科大学に進学。大学在学中に海外の医学雑誌で心臓バイパス手術の様子を見たことがきっかけで心臓外科医を目指す。
1974年 卒業後、東京の虎の門病院外科レジデントに就職。心臓外科以外の一般外科を経験。これが後の世界初の胃大動脈のバイパス手術に生きる。
1978年 28歳のとき順天堂大学胸部外科へ。ここから心臓外科医としてのキャリアがスタート。
1982年 母校の大阪医科大学胸部外科へ戻る。
1984年 アメリカユタ大学心臓外科が史上初の人工心臓完全埋め込みに成功したニュースを聞き、ユタ大学心臓外科へ半年間留学。心臓手術の本場で最新の知識、技術を学ぶ。半年後帰国。自分で心臓手術チームをもってバイパス手術を行うようになる。
1986年 世界初の胃大動脈をグラフトに使ったバイパス手術を成功。
1989年 心臓病治療で有名な三井記念病院に請われ、循環器外科科長に就任。
1992年 三井記念病院の心臓血管外科部長に就任。
1994年 ローマ法王も入院したことのある2,000床規模、バチカンの指定病院にもなっているローマ・カトリック大学から招聘され、同大学心臓外科客員教授に就任。同時にモンテカルロにあるモナコ心臓センターのコンサルタントも兼任。
1996年 帰国。湘南鎌倉総合病院から副院長に招かれ就任。日本初のバチスタ手術を行う。手術そのものは成功したものの、患者は肺炎で死亡。時期尚早だったのではないかとマスコミからバッシングされる。しかしその3カ月後、2例目のバチスタ手術を敢行。成功を収め、余命数カ月だった患者の命を救う。
1998年 湘南鎌倉総合病院の院長に就任。
2000年 神奈川県葉山市に心臓病専門の病院「葉山ハートセンター」を設立、院長に就任。10年間で13カ国の病院を回った経験を元にこれまでの常識を打ち破った、患者がリラックスできる病院をつくり、話題となる。
2004年 順天堂大学心臓外科客員教授に就任。
2005年〜 財団法人心臓血管研究所のスーパーバイザーに就任。自らも現役の心臓外科医として、全国からやってくる数多くの患者の命を救っている。

「医療・医療機器・福祉関連/医師・技師」の転職事例

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