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第27回
須磨久善氏インタビュー(その1/全5回

須磨久善氏

他人の喜びは自分の幸せ
社会の中で幸せに生きるために
医師という手段を選んだ

心臓外科医須磨 久善

「神の手」をもつと呼ばれる男がいる。心臓外科医・須磨久善57歳。これまで世界初、日本初となる数々の難手術に挑戦し、数千人の命を救ってきた。30年以上もの間、数多くの弱った心臓を蘇らせてきた医師に、医療とは何か、仕事とは何か、そして命とは何かを聞いた。

すま・ひさよし

1950年生まれ、57歳。神戸市出身。「神の手をもつ男」と世界から賞賛・尊敬されている心臓外科医。これまで手がけた心臓手術は5000件超。数多くの患者の命を救うだけではなく、数々の新しい手術にチャレンジ、その後も改良を重ね成功率、生存率を上げている。心臓外科医としてだけではなく、心臓血管研究所のスーパーバイザーとして、病院全体のレベルアップを目指し尽力中。 また、教育の一環として小・中・高校生を病院に招待し、実際の手術を見学させる「病院見学会」を実施している。葉山ハートセンター時代からこれまで見学に訪れた子供たちは5000人以上。 医療関係者のみならずビジネスマン・経営者向けの講演、「プロジェクトX」、「課外授業−ようこそ先輩」(NHK)などのテレビ出演、ドラマ『医龍』(フジテレビ)の手術監修など、多方面で活躍している。主な経歴

病院のヘッドコーチ

現在は六本木にある心臓血管研究所付属病院(※1)で「スーパーバイザー」として勤務しています。スーパーバイザーとは、病院がよりグレードアップしていくためにどうすればいいかを考え、指導する職務です。簡単に説明すると、患者さんにより質の高い医療を提供することで、高い評価をいただき、経営的にもさらに良好になることを目指し、指導する。つまり病院におけるヘッドコーチみたいなものですね。

写真:オペ中の須磨医師(写真左)(提供/心臓血管研究所付属病院)

この病院に赴任する前は葉山ハートセンター(※2)で院長を5年間務め、病院全体のクオリティの向上、スタッフの育成、病院の対外的なアピール手法などを十分経験してきました。心臓血管研究所付属病院全体が高まっていくために、葉山時代の経験を元に指導しているというわけです。  こういう「スーパーバイザー」という職務は、日本の病院では初めてなんじゃないでしょうかね(笑)。他の業種、映画、スポーツの世界にはいるでしょうけどね。

もうひとつの大きな役目は、今の心臓外科のチームをよりパワフルにすることです。個人個人だけではなく、チーム全体がパワーアップするように指導しています。またこれまでの手術を改良して、より安全性や確実性が高いものにするという研究も行っています。

※1 心臓血管研究所付属病院──第一生命保険相互会社の巨額の寄付で1959年に設立された循環器疾患の専門研究機関「財団法人 心臓血管研究所」の付属病院。長い歴史と研究に裏打ちされた循環器系の治療、手術に定評がある循環器専門病院。

※2 葉山ハートセンター──正式名称は「医療法人社団 愛心会 葉山ハートセンター」。須磨氏が世界各国の病院で心臓病の手術、指導を行ってきた経験を元に、「患者がリラックスして治療を受けられる病院」を目指して2005年5月、神奈川県葉山町に設立。特に感銘を受けたモナコの病院をモデルにしている。木材をふんだんに使った病棟、ホテルのような落ち着いた雰囲気、相模湾や富士山を一望できる病室など、これまでの常識を打ち破る病院として話題となり、現在も全国から入院希望者が押し寄せている。「患者に喜ばれる病院」という須磨氏の理想を体現した病院。もちろん心臓病手術のエキスパートがそろっており、高い実績を誇っている。日本医療機能評価機構認定病院。

現役の心臓外科医として

もちろん、研究や指導だけではなく、今も現役の心臓外科医として実際に手術を行っています。全国各地から、他の病院では手術ができないといわれた大勢の心臓病の患者さんから手術の相談・依頼が来ています。紹介状がなくても、できるかぎりその全部を受け入れるようにしているんですよ。メールでの直接の問い合わせも、かなりの数が来ますがすべてに対応しています。1カ月に手術する患者さんは、平均20人くらいですかね。

国内だけではなく海外でもよく手術をしています。これまでいくつも新しい心臓手術を開発(※3)して学会で発表していて、手術件数も多いので、海外の医療機関から公開手術(※4)や講演の依頼がしょっちゅう来るんです。だいたい月に1回は海外へ行ってますね。今週末からローマ、来月はドバイ、再来月はマレーシアでの国際会議と公開手術があります。だからもう60歳近くになりますが、なかなか現役リタイヤというわけにはいかないんですよね(笑)。

こんな感じで仕事は多岐にわたります。院長だったら手術は若い外科医に任せて院長業に専念していればいいし、いち心臓外科医だったら心臓の手術だけをしていればいいのですが、その両方、病院全体を見渡して、いろんな角度からいろんな人々にアドバイス・指導をしつつ、自分自身でも他の医者の手本となるように心臓外科医として行動で現していかねばなりませんからね。

※3 いくつも新しい心臓手術を開発して世界に発表──世界初となる胃の大網動脈を使った心臓バイパス手術や、肥大した心臓を縮小させる改良型のバチスタ手術、中隔前壁心室除外術(セイブ術)など、須磨氏が新たに開発・改良した心臓手術は枚挙に暇がない。その手術は国内だけではなく海外でも広まっている。ただ単に高い技術力で目の前の患者を救うだけでなく、日々の研究・開発・改良によって、直接・間接的により多くの人の命を救っているのだ。

※4 公開手術──手術室にカメラとマイクを設置し、手術の様子の映像を別室のモニタールームで流すことによって、大勢の医師がリアルタイムで手術の一部始終を見学できる。モニターには手術部位が拡大して写しだされるので、細部までよく確認でき、理解できる。須磨氏は海外での公開手術を14〜5年前から行っており、その手腕を一目見ようと世界中から医師が集まる。同じ手術を他の医師と同時にスタートしても、須磨氏の方が早く終わることがほとんどだという。そのスピード、正確さも世界トップレベルなのだ。

葉山に理想とする医療を実現できる病院を建て、院長として、外科医として数々の命を救い、病院の評価を高め、経営も軌道に乗せた。そんな理想的とも思える状況から、なぜ六本木という東京のど真ん中の病院にホームグラウンドを変え、新たなスタートを切ったのか。そこには須磨氏の本来の目標があった。

「東京の中心」がひとつのゴールだった

葉山ハートセンターは最初から葉山にしようって決めていたわけじゃなくて、最初は東京に建てたいと思っていたんです。そもそも「東京の真ん中に心臓病専門の病院を作る」というのが、僕にとってのひとつのゴールでしたから。「心臓病」は、働き盛りの人が突然襲われる、そして治療まで一刻を争うという病気です。だからやっぱり人口が集中している東京の真ん中にいた方が、ひとりでも多くの患者さんを救えると思っていたんですね。

だから東京で場所を探していたんだけど、なかなかいいところが見つからなかった。そうこうしてるうちに、「葉山にいい場所があるけどどうですか」という話があって、実際に行ってみるとすごくいい場所だったから、現在病院が建っている場所に決めたんです。

作る際は、場所だけではなく、建築家選び、内装、設計、デザインすべてに関わり、それまで海外で見てきたいい病院のいいところを全部集めて作りました。だからこれまで患者さんから高い評価を得てきましたし、いまだに病院として最も素晴らしいといってくださる方も大勢いる。葉山のような場所に作る病院としてベストに近い形ができたと思います。

しかし、葉山のような場所で心臓病を治せる人は、一握りの恵まれた人なんです。なにしろ人口が集中している首都圏から離れているので、葉山にたどり着くまでの時間的な余裕がある人、また家族も見舞いに来たり泊り込んだりできる余裕がないと来られない。もちろん葉山近隣の人は大喜びだけど、東京近郊に住んでる大勢の人たちにとっては遠すぎる。心臓病になっても葉山までたどり着けない人もたくさんいるはずなんですよね。

東京の真ん中でより多くの患者を救いたい

だからこの六本木にある心臓血管研究所付属病院の方をはじめ、東京に住んでいるいろんな方から、東京に来てほしいと頼まれたとき、すごく魅力的なオファーだと思いました。

写真:須磨氏は、世界の名医を選出し患者に紹介するベストドクターズ社(米)の「名医」に認定されている。名医の認定は専門医同士の相互評価で下される。同社に名医として認定されるということは世界的名医の証。ちなみに世界中では5万名、アメリカでは3万名、日本では約1400名の医師が名医として認定されている

しかも3年後くらいに病院が新しく建て変わる予定だと。安心して心臓の治療を受けられる病院を作るために経験を生かしてぜひ協力してほしいということだったので、「東京の真ん中に理想的な心臓病専門の病院を形にする」という長年の夢をかなえるチャンスだと思ったんです。

葉山ハートセンターの方も、5年間で相当数の心臓病の患者さんの命を救えたし、社会的にも認知されるなど、病院としての形が整ったので、僕がいなくなっても大丈夫だろうと。ならば次の仕事として東京といういろんな人たちが混ざり合って、日本の原動力として働いている人たちにとって身近でベストな病院を作りたいと思って心臓血管研究所付属病院に移ることにしたんです。(※5)

確かに東京には葉山のような美しく豊かな自然はありません。葉山は空気はきれい、目の前には美しい海、天気のいい日は富士山まで見える、そういう場所なら誰だって気持ちよくなりますよ。そういう自然の美しさをじゃましないような形で作ったのが葉山ハートセンターです。でも東京のど真ん中にはそういうものは望むべくもない。だから葉山に理想的な病院を作るより、もっともっと何倍も難しいんですよね。

今はスーパーバイザーとしていろいろと考えているところですが、東京の真ん中のような場所だからこそ、心臓を患う方たちが心身ともにリラックスして安心して治療を受けられるような病院にしたいと思っています。

※5 心臓血管研究所付属病院に移ることにしたんです──現在は国内外での講演や公開手術以外は心臓血管研究所をホームグラウンドとして医療活動を行っているが、葉山ハートセンターとも縁が切れたわけではなく、週末などに訪れている。

心臓外科医になって34年。これまで執刀した手術は5000件超。今や心臓外科手術の世界的権威として、国内外の多くの患者や医師から尊敬を集めている。そんな須磨氏が医師を志したそもそもの動機は「自己と他者のつながり」にあった。

原点・医師を目指した理由

僕が医者になりたいと思ったのは中学2年生のときです。そのころちょうど高度成長期で、世間ではモーレツ人間、つまり「他人を押しのけて這い上がっていくのが立派な男」というような風潮があったんです。

だけど僕はそうはなりたくなかった。小さい頃から人と争ったり、ケンカしたり、競争したりすることが嫌いだったんです。だから自分の将来を考えたときに、自分が幸せに生きていくためには、恥ずかしくなくて、他人と競争しなくてもよくて、でも人からありがとうといってもらえるような仕事がいいなあと思ったんですね。

それで出てきた答えが医者(※6)だった。大きな組織で誰と競争するわけでもない、患者さんとの一対一の勝負だし、病気で困った人を助けたら喜んでくれる。だから医者になろうと決めたんです。つまりまず「医者ありき」じゃなくて、社会人として他人とつながって喜んでもらうために何がいいかと考えた中で、医者という方法・手段を見つけたわけです。

でも実際に医学部進学のための勉強を始めたのは高校3年の秋ころでした。根がのんびり屋なんですね(笑)。そこから数カ月間、それこそ死に物狂いで勉強して大阪医科大学に合格しました。あまり時間が残されていなかったので勉強はたいへんでしたが、「なんのために医者になりたいのか」という動機がはっきりしていましたから、途中で嫌になって他の方向に逃げようと思うことはなかったですね。

※6 医者──同じ頃、夢でグリーンの衣服を身につけた自分の姿を見たという。「医者といったら普通は白衣に聴診器なのに、なぜか緑だった。それで、どうもあれば外科医の格好だなと思いましてね。その頃から医者に、しかも外科医になるんだと思い込んだわけです」(『プロジェクトX ザ・マン すべては感動からはじまる』(聞き手・「プロジェクトX」制作班今井彰/NHK出版 P.16から引用)

大阪医科大学に入学後は、中2のときに見た神の啓示にも見た夢と、海外の医療テレビドラマの影響で外科医を志す。そして在学中に出会ったある手術で須磨氏の医師としての運命が確定した。

運命を決定付けた心臓バイパス手術

僕が大学に入学した頃、アメリカで心臓のバイパス手術が爆発的に広まったんですね。その論文を医学雑誌で読んだとき、心臓ってこんなふうにして治すんだと感動しました。それで自分も心臓外科医になってやってみたいと思ったんですね。この心臓バイパス手術との出会いが、僕の医者としての運命を決定づけたと思います。

でも当然、心臓を扱うということは命そのものを扱うこととほぼ同義ですから、自分にその責任の重さに耐える覚悟があるのか、心臓外科医としての適性はあるのか、本当にできるか、ということを繰り返し自問自答しました。でもそれでも挑戦してみたいという気持ちの方が勝り、心臓外科医を目指そうと決意したんです。

※1 大学3年生のころ──その前年には南アフリカのケープタウンでクリスチャン・バーナード医師が世界初の心臓移植に成功。心臓外科が世界的な注目を集めていた。

急がば回れ

大阪医科大学を卒業後は、母校の医局ではなく、東京の虎の門病院一般外科レジデントに就職しました。その理由は、確かに学生時代から心臓外科医になりたいとは思っていましたが、そのまま大学の医局に入って最短距離で心臓外科に行くということに不安を感じていたからです。というのは、いくら自問自答を重ねて心臓外科医になることを決意したといっても、実際にやってみなければわかりません。もしかしたら想像以上に向いていないという可能性だってある。そうなったとき、心臓のことしかわかりませんというのでは、行くところがないわけです。そういったリスクヘッジの意味がひとつ。

もうひとつは適性があって心臓外科医にはなれても、心臓のことしかわからない心臓外科医にはなりたくなかったから。僕が目指していたのは、人体を総合的に理解できる広い基盤をもった心臓外科医でしたから、まずはひととおりの一般外科をきちんと教えてくれる病院に勤めたいと思ったわけです。

どこがいいかなと調べたところ、虎の門病院が海外と同レベルでの臨床研修・手術を実施していたので、試験を受けて採用となりました。

当時の虎の門病院には心臓外科だけがなかったので、就職してからの4年間は病理や麻酔など一般外科の知識を深められ、消化器系の臓器の手術も多数経験でき、人体について総合的な理解を深められました。

4年間心臓以外の一般外科の経験を積んだ須磨氏は、順天堂大学の心臓外科に入局。いよいよ心臓外科医としてのキャリアがスタートした。 次回は医師としての運命を決定付けたある手術、そして世界初、国内初となった手術に挑んだときの心境に迫る。

●主な経歴

1964年 中学2年生のときに「人のために何かをして喜んでもらう仕事がしたい」と医師を志す。
1968年 大阪医科大学に進学。大学在学中に海外の医学雑誌で心臓バイパス手術の様子を見たことがきっかけで心臓外科医を目指す。
1974年 卒業後、東京の虎の門病院外科レジデントに就職。心臓外科以外の一般外科を経験。これが後の世界初の胃大動脈のバイパス手術に生きる。
1978年 28歳のとき順天堂大学胸部外科へ。ここから心臓外科医としてのキャリアがスタート。
1982年 母校の大阪医科大学胸部外科へ戻る。
1984年 アメリカユタ大学心臓外科が史上初の人工心臓完全埋め込みに成功したニュースを聞き、ユタ大学心臓外科へ半年間留学。心臓手術の本場で最新の知識、技術を学ぶ。半年後帰国。自分で心臓手術チームをもってバイパス手術を行うようになる。
1986年 世界初の胃大動脈をグラフトに使ったバイパス手術を成功。
1989年 心臓病治療で有名な三井記念病院に請われ、循環器外科科長に就任。
1992年 三井記念病院の心臓血管外科部長に就任。
1994年 ローマ法王も入院したことのある2,000床規模、バチカンの指定病院にもなっているローマ・カトリック大学から招聘され、同大学心臓外科客員教授に就任。同時にモンテカルロにあるモナコ心臓センターのコンサルタントも兼任。
1996年 帰国。湘南鎌倉総合病院から副院長に招かれ就任。日本初のバチスタ手術を行う。手術そのものは成功したものの、患者は肺炎で死亡。時期尚早だったのではないかとマスコミからバッシングされる。しかしその3カ月後、2例目のバチスタ手術を敢行。成功を収め、余命数カ月だった患者の命を救う。
1998年 湘南鎌倉総合病院の院長に就任。
2000年 神奈川県葉山市に心臓病専門の病院「葉山ハートセンター」を設立、院長に就任。10年間で13カ国の病院を回った経験を元にこれまでの常識を打ち破った、患者がリラックスできる病院をつくり、話題となる。
2004年 順天堂大学心臓外科客員教授に就任。
2005年〜 財団法人心臓血管研究所のスーパーバイザーに就任。自らも現役の心臓外科医として、全国からやってくる数多くの患者の命を救っている。

「医療・医療機器・福祉関連/医師・技師」の転職事例

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