キャリア&転職研究室|魂の仕事人|第18回 ラリードライバー 篠塚建次郎-その三-俺はやっぱりラリー…

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魂の仕事人 第18回 其の三
俺はやっぱりラリースト 自分と向き合い下した決断 サラリーマンドライバーに終止符
 
1978年、絶望的ともいえる「不運」が篠塚氏を襲う。三菱ほか国内自動車メーカーが排ガス規制とオイルショックのあおりをうけ、モータースポーツ事業から撤退してしまったのだ。以後8年間、ラリードライバーとしてもっとも脂の乗る貴重な時期にほとんどハンドルを握れなかった篠塚氏。しかし、ただ絶望に打ちひしがれているだけではなかった。  
ラリードライバー 篠塚 建次郎
 

暗黒の8年間

 
現在ダカールラリーに参戦中の篠塚氏。「体は元気だし、明日もしっかり行きますよ」(篠塚建次郎オフィシャルウェブサイトより)
 

 ラリーができなかった8年間はしっかりサラリーマンをやりましたよ。もっとも全く走れなかったというわけじゃなくて、3〜4回はテストを兼ねて出場しました。でも数年に1回の割合ですからね……。そりゃ、ラリーに出たいけど出られないというジレンマとか葛藤はいっぱい感じていましたよ。でも、あの時は日本の自動車メーカーが全部モータースポーツ事業をやめていましたからね。どこか他のメーカーへ移ればラリーができるというならそうしたかもしれないけど、それもできなかった。ならば三菱の社員として頑張るしかないと思いましたね。なぜか、きっとまた、モータースポーツを始めるだろうなという確信だけはありました。

 自動車メーカーにとってモータースポーツというのは、不可欠なものだと僕は思うんです。アイデンティティのひとつだといっても過言ではない。だから状況さえ変われば、絶対、いつかは再開するに違いないとね。ただ、再開した時にまだ自分が現役でやれるかどうかはわからなかったので、不安がなかったわけではないですけどね。結局僕がラリーに復帰できたのは86年。もう37歳になっていましたから、これ以上長引けば年齢的に厳しいかなと感じはじめていた頃だったので、うれしかったですよ。

 でもハンドルを握れなかった8年間も、どうしようもないくらい焦ったり、暗い気持ちになったりはしませんでしたね。ラリーに出られる可能性がなくなれば、そのまま会社員として人生をまっとうしようと思っていました。それはそれでおもしろいかなと。だってこればっかりは僕がどうあがいてもどうしようもないですからね。だったら腹をくくるしかないでしょう。

 実際、8年間のサラリーマン生活は楽しかったですよ。この間に得られたものは、サラリーマンとして、ラリーをやらなくても、ちゃんと生きていけるという自信ですね。これは大きかったと思いますよ。

三菱がモータースポーツ事業を再開したのは81年。しかし再開に当たって起用されたのは外国人のプロドライバーで、篠塚氏には声がかからなかった。しかし85年にパリ・ダカールラリーで三菱パジェロが優勝。これが復帰のきっかけとなる。

初めてのパリダカは46位完走
 

 85年のパジェロの優勝はフランスでは結構大きく報道されたけど、日本ではほとんどのメディアが扱わず話題にもならなかった。ドライバーが外国人だったし、当時、日本ではパリ・ダカールラリーなんて誰も知らなかったからね。せっかくの快挙も話題にならなかったらアピールできないし、車も売れない。だから三菱としては、やっぱり日本人が乗らなくてはだめだということになった。

 日本人では、85年のパリダカに俳優の夏木陽介さんがパジェロで出場しているのですが、リタイアだった。夏木さんとしてもスポンサーの手前、ちゃんと完走したいと考えたのでしょう。もう1台、完走できるドライバーがほしいということで、86年のパリダカに一緒に出ないかと誘われたんです。

 一方の三菱も、完走できる日本人ドライバーを探していたら、社員にいるじゃないかと僕の存在に行き当たった。ようやく歯車がうまく噛みあって動き始めた。そういうわけで、86年、僕は夏木さんと一緒にパジェロで出ることになったんです。

 最初は、まずパリダカがどんなレースか見てみようじゃないかという気持ちで出場しました。だから車も勝つためのものじゃなく市販車と大して変わらない性能でしたね。結果、48位で完走。パリダカに興味を示すメディアも少し出てきて、ならば来年も出ましょうということになった。

出場直前のマシン大破が幸運を呼んだ
 

 87年はプロトタイプの速い車に乗って、三菱のワークス体制で出場することに決まり、パリダカを日本人が初めてプロトタイプで走るなら日本で一から車を作ってみようということになったんです。車は2台作りました。そして、みんなで一生懸命仕上げた車をいきなりパリダカの本番に出すのもちょっと不安だから、その前にオーストラリアのラリーに出してテストしようということになって、小手調べに夏木さんがもうひとりのドライバーと2台で出た。ところが、レース中、2台ともひっくり返っちゃって、車はグチャグチャ。とてもパリダカに間に合うような壊れ方じゃなかった。ビックリしたなんてもんじゃないですよ。

 だからといって出場を取りやめるってわけにもいかない。とにかく走れる車がほかにないかと探したら、その前の年の86年に外人ドライバーが乗った車が埃をかぶって倉庫に置いてあるよとフランスから連絡が来た。じゃあそれを直せばいいじゃないかという話になって、すぐ整備して出場です。何かを考えている暇などなかった。無心で上位入賞を目標に走った結果、3位に入賞してしまいました。日本で作った車を無理やり直して出ていたら、リタイアだったでしょうね、絶対。

3位入賞ですべてが変わった
 

 また、その年はNHKがパリダカを初めて大きく取り上げて、連日レースの模様を放送していたおかげで、世間一般に「パリダカ」の知名度が上がりつつあった。過酷なラリーで日本人が上位を目指していると応援してくれて、「3位入賞しました!」と大々的に結果を報じたことが追い風になって、他のマスコミにもたくさん取り上げられるようになった。それ以降、パリダカとパジェロと篠塚というのは、セットのようにして一般の人の中にもワーっと広がっていったわけです。同時に、パジェロの売り上げもドーンと上がっていったんですよ。会社の中でも、パジェロ、篠塚、パリダカが認められて、水戸黄門の印籠みたいになってしまった(笑)。

 それからはもう、ほんとうにすべてガラッと変わりましたね。日本の中でのモータースポーツの地位というか扱われ方が変わった。87年は中島悟がF1のレギュラードライバーになった年でもあったから、パリダカとF1の両方でモータースポーツがお茶の間の話題に上るようになったんです。

 乗るはずの車が壊れ違う車に乗った運、マスコミが報道してくれた偶然。マシンにしてもマスコミにしても、考えてみればすべてがいい方向に行きいい結果が出た。運とか偶然とか出会いとか。そういうものに僕は恵まれていると思いますね。

 もちろん、そういう好機をしっかりとつかみ取る力も必要です。チャンスっていつでも目の前にあるのに、それに気づかず、すっと通りすぎていっちゃうことがいっぱいあるはずなの。だから、ああ、これがチャンスだと感じたら、いい方に転がりそうだと思ったら、それをぐっと引き寄せることのできる力を常に備えていることが、生きてく上ですごく大切なことだと思うんです。日頃の心構えとか人一倍の努力とか、どれだけ味方がいるかとかね。

 周囲の理解や協力を得ておくのも大事ですね。せっかくチャンスが来たのに、例えば家族の問題とかお金の問題とか自分自身の健康の具合とか、いろんな問題でみすみす逃してしまうということもいっぱいあるでしょ。いつでも、チャンスが来たときにしっかりつかめる環境を整えておくというのも大切だと思いますよ。僕は、家族に感謝しています。カミさんと息子には頭が上がらない。支えられて守られているから、こうして走り続けていられるわけですからね。

87年のパリダカでの3位入賞以降、8年間のブランクを埋めるかのように世界中のラリーに出場しまくる怒とうの日々が始まった。88年にはアジア・パシフィックラリー選手権の初代チャンピオンに輝き、世界ラリー選手権(WRC)への挑戦もスタート、91年にはWRCで優勝を達成した。もちろん日本人初の快挙だった。

海外ラリーで初優勝
うれしいよりもびっくり
 

 1991年にWRC(世界ラリー選手権。ラリーの世界最高峰)のアイボリーコーストで優勝したときは、自分でもびっくりしましたね。なんせ1974年、25歳のときに出たオーストラリアのラリーでは、WRCで日本人が優勝するのは、自分では絶対無理、僕の息子か孫くらいの世代でやっと優勝できるやつが出てくるかもしれないなと思うくらいの差があると思っていたわけですからね。もちろんうれしかったけど、それよりもとにかくびっくりした。

 なぜその差が縮まったか? 87年以降、海外ラリーに出まくったからじゃないですかね。本番のラリーに数多く出ながら、トップクラスとのタイム差を、なんでこんなに違うのかな、あそこのコーナーをこうやって走ればいいのかな、とか考えながら走っていましたからね。そういう積み重ねでちょっとずつ速くなっていったのかもしれないですね。

練習だけではダメ
 

 やっぱり、本番というのは気合が入るわけですよ。ここ一発ってときに出る底力というのは、本番でしか出せないんじゃないですかね。それを繰り返すことでしか、世界に通用する力を身につけることはできない。練習だけじゃダメなんですよ。

 練習というのは、自分の守備範囲の中でしかやらないでしょ。それを超えてまではまずやらない。特にモータースポーツの場合は死と背中合わせだったりしますからね。でも、そのままではいつまでたっても進歩できないわけですよ。その守備範囲を超えるためには、何かが必要なんです。

 幅5メートルの川を飛び越えてみろと言われても、普通なら飛ばないでしょ? だけど、飛んだら1億円やるぞと言われたら飛ぶ人がいるかもしれない。命がけの何かが必要なんです。本番にはそれがある。ここが勝負どころだというときには、練習では時速150kmでしか曲がれないコーナーを、ここ一発の160kmで行けたりするんですよ。だから限界を高めていくためには、なんと言われようと本番で勝負することを繰り返さないとダメなんでしょうね。

転機となった2000年の大事故
 
2005年11月にイタリアで行われたテスト走行にて
 

 でもいいことばかりではなくて、ラリー中の事故であわやということもありました。2000年のパリ・カイロラリーでのことです。6台一緒にスタートする日で、ワーッと6台で出たんですよ。そのうち4台が一緒になって走っていたんですが、砂丘を時速160kmくらいで越えたらその先が谷のように急激に落ちていて、落ちきったその先にまた砂丘が壁のようにそそり立っていたんです。

 そこに4台がボーンと飛んで一緒に砂丘に突き刺ささるようにぶつかった。なんせ160kmですから、激突した衝撃で砂の壁の上に跳ね上がって、縦にドカーンドカーンと転がっちゃった。当然4台とも大破でリタイア。車1台にドライバーとナビゲーターが乗っているから、4台で計8人が大怪我をした大事故で、僕のナビゲーターを含めた4人は背骨が折れてしまった。中にはいまだに車椅子の人もいます。僕のナビはラリーに出場できなくなったけれど、三菱チームの監督で今もラリーに夢中ですけどね(笑)。僕は数箇所の骨折で済んだからラッキーでした。

 そのときの事故でラリーを辞めようとは思わなかったか? 全然思わなかったですね。僕の背骨が折れなかったのは、神様が「まだラリーをやれ」といっているんだろうと受け止めた。僕はなんでもいいほうにとっちゃうから(笑)。

 だからその事故でラリーに対する恐怖心が芽生えたということも、走っているときに事故のことを思い出してアクセルが踏めなくなるなんてことも全くなかったですね。事故を起こしたドライバーの中には2タイプいてね。10人中9人は大きい事故を起こすとそれが影響して速く走れなくなる。でも僕は残りの1人の方で、あんまり関係ないようですね(笑)。

自分はなにがやりたいのか……
 

 事故後、リビアからチュニジアの病院に運ばれて、眉と目の間を5cmほど切った傷を縫ったあと、パリの病院を経由して日本に帰ってきました。実は尾てい骨にひびが入っていて悲鳴をあげるほど痛かったんですが、骨の治療は治るのを待つしかなくて何もやることがない。どこかへ行きたくても歩けないから2カ月くらい家でごろごろしていました。

 そのときにね、時間がいっぱいあったからいろいろ考えましたよ。自分はラリードライバーなのかサラリーマンなのかとか、これからどうしたいのかとか、なにをしたいのかとかね。そして、自分の中で出た結論は、「サラリーマンではなくラリードライバーである」だった。そのときもう52歳だったから、年齢的にもこれから先そう長くラリーができるわけではないし、二足のわらじは脱いで、ラリーにもっと集中できる環境を作りたいなと思ったわけ。

 でも明日からサラリーマンを辞めてラリーだけやりますわっていうわけにもいかないでしょう。家族とか生活の問題もあるしね。そこで会社に、海外に駐在させてほしいという希望を出したんです。そしたらそれが予想外にスンナリ通って、2000年の秋にフランスに家族と一緒に赴任しました。ラリーに集中できるようにフランス駐在を会社が認めてくれたわけですよ。もちろん三菱の長い歴史の中でも僕が初めて。ほんとうに僕は特例をたくさん作ってもらってきた。社員冥利につきます。二足のわらじを履いてきたことは正解でした。

2000年から、よりラリーに集中するためにフランスへ赴任した篠塚氏は、2002年のアラス・ダカールラリーで総合3位、イタリアン・バハラリーでも総合3位の好成績を挙げる。しかしその後、入社以来ずっと信頼してきた大先輩から信じられないメールが届いた。それ以降、篠塚氏のラリー人生はさらに大きく変わることになる。

運命を変えた一通のメール
 

 イタリアン・バハラリーで3位になった後、三菱のモータースポーツの運営全般をやっている会社の人からメールが来ました。その人は僕とずっと一緒にモータースポーツをやってきた人ですが、「そろそろ歳だから、もう引退したほうがいいんじゃないの?」って。まさに想定外でしたよ。体が震えるほどのショックでした。

 当時僕は53歳だったから、当然引退してもおかしくない歳ですよね。でも、パリダカで3位になってまだまだ走れることを実感したばかりだったし、イタリアンバハも3位で、引退なんて全く考えてなかったから、まだ走りたいとメールを返したわけですよ。でも結局平行線になっちゃって……。

やっぱり俺はラリースト
30年間のサラリーマンドライバーに終止符
 

 ラリーを続けるならば、もう三菱を辞めるしかない、そういう状況に追い込まれてしまった。サラリーマンとしてなら三菱に残る道もありました。だけど、自分で自分をそう追い込んだみたいなところもあるかな。もう辞めるしかないってね……。2000年の事故のときと同じく、自分はラリードライバーなのか、サラリーマンなのかと考えたとき、やっぱりラリードライバーだと思った。まだラリーがやりたいと思った。また、サラリーマンには自分より優秀な人はいっぱいいるけれど、ラリードライバーには自分を超える人はまだいないとも思った。となるとやっぱりラリーをやると決断するしか道はなかったですね。で、結局、三菱を辞めた。

 結論を出す前に家族には相談しましたよ。すると、カミさんは「ラリーをやりたいのなら、会社辞めればいいんじゃない?」ってあっさり言ったんです。普通だとね、やっぱり、生活どうするのって話になっちゃうよね。その当時僕らは家族でフランスに住んでいたわけだから、この先フランスでどうやって生活していくのってね。会社の駐在員だったから、フランスのアパート代も出してもらえていたわけだし、突然そういうのがなくなるわけだから大変だよね。僕はあんまり生活観がないから、何が大変になるのかあまり実感としてはなかったけど、カミさんはわかっていただろうから。だけど、「いいじゃないの、辞めれば。走りたいんでしょ?」って。息子も「親父がラリーをやりたいならいいんじゃない?」って言ってくれたし……。後押しされたという感じかな。家族が平然と受け止めてくれたから、会社を辞められたのだと思いますね。

 もしカミさんが辞めないでくれと言ったとしたら? うーん、まずそんなことを言うようなカミさんじゃないです。「走りたいから走っているんでしょう? ならば走りたいだけ走ればいい」と、いつもいわれていましたからね。だから思い切りラリーがやれてきたわけだし、家族のためにサラリーマンでいることを僕が選んでもカミさんと息子は喜ばないでしょう。走ることが家族の生活につながっていくと僕は考えています。

55歳でフリードライバーに
新天地・ニッサンへ
 
1月12日の走行を終えてほっと一息「ともあれズエラには無事到着。明日も大変そうです」(篠塚建次郎オフィシャルウェブサイトより)
 

 そうは言っても会社を辞めると決断したときは、走るにしてもどうするのか全然決まってなかったので、不安といえば不安だったですよ。どこの会社やチームでラリーがやれるのか、走ることだけで稼ぐことができるのかってね。ずっとサラリーマンドライバーだったわけで、フリーになったのは初めてでしたから。

 ただ、三菱に正式な辞職の書類を出す時には、日産との話が進みつつありました。6月に日本に戻り会社を辞めますと意思表示をしたあたりで、日産とのコンタクトが取れ始めたんです。

 日産の中でダカールラリーをやるというプランが前々からあったようなんです。しっかりとした経験と実績を持ったラリードライバーと一緒にやらないとうまくいかないというのがわかっていて、それで僕を見込んでくれた。その後はとんとん拍子でしたね。その年の秋に日産と契約しました。

 

2003年から日産のドライバーとしてパリダカに参戦した篠塚氏だったが、開発を兼ねながらのレースではなかなか結果が残せず、日産は当初の計画から1年早い3年でダカールラリーから撤退してしまう。メーカーという大きなバックボーンを失ったが、それでも篠塚氏は走ることをやめなかった。2006年、2007年はフリーのラリードライバーとしてダカールラリーに参戦している。

次週のシリーズ最終回では、篠塚氏にとってラリーとは何か、何のために誰のために走り続けるのかに迫ります。乞うご期待!

 
2007.1.8 現役にこだわり続ける理由
2007.1.15 サラリーマンドライバーとして
2007.1.22 やっぱり俺はラリースト
2007.1.29 ラリーこそ人生のすべて

プロフィール

しのづか・けんじろう

1948年東京都生まれ、58歳。フランス在住。2007年、23回目のパリ・ダカに出場。今なお現役で走り続ける世界的ラリースト。

1967年、大学1年生でラリーデビュー、在学中に三菱自動車のラリーチームにスカウトされ、1年目で国内チャンピオンに輝く。大学卒業後はその手腕を買われ、三菱自動車に入社。以後32年間、サラリーマン・ラリードライバーとして国内外で活躍。世界ラリー選手権優勝、パリ・ダカールラリー優勝など数々の「日本人初」の偉業を達成。全盛期は稲妻のような鋭い走りから「ライトニング・ケンジロー」と呼ばれ、その名を世界に轟かすと同時に、4WDブームと世界的ブームを巻き起こし、現在も続くSUVという一大市場を作り上げる。

2002年のパリダカ3位を最後に三菱自動車から引退勧告を受けるも、現役にこだわり退社。2003年に日産へ移籍。2006年からフリードライバーとしてレースに参戦している。

●主な戦績
1967   ラリーデビュー
197172  
全日本ラリー選手権 シリーズチャンピオン獲得
1976  
サファリラリー 総合6位(日本人初)
1987  
パリ〜ダカールラリー 総合3位
1988  
パリ〜ダカールラリー 総合2位
アジアン・パシフィックラリー選手権 シリーズチャンピオン獲得
1991  
アイボリーコーストラリー(WRC) 総合優勝(日本人初)
1997
パリ・ダカールラリー総合優勝(日本人初)
1998
パリ〜ダカールラリー 総合2位
2002  
アラス〜ダカールラリー総合3位

●詳しいプロフィール、戦績、近況などは、篠塚建次郎オフィシャルウェブサイト

 
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「サラリーマンだからこそできることがある」「サラリーマンだって、イケているさ」「サラリーマンでひとつの仕事を頑張り抜けば、文字通り『世界一』にだってなれるんだぜ」篠塚氏がこれまでのラリー人生を振り返りながら、「サラリーマンでひとつの仕事を続けるすばらしさ」について語る。今、壁にブチあたっていたり、自信や元気をなくしているサラリーマンにこそ読んでほしい一冊。

 
 
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「本番」をこなさなければ、進歩も成長もない! 「本番」をこなさなければ、進歩も成長もない!
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協力/キャスポ事務局(株式会社スポーツビズ内)
http://caspo.jp

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