キャリア&転職研究室|魂の仕事人|第14回編集家 竹熊健太郎さん-その2-10年に1度の仕事で運命が…

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魂の仕事人 魂の仕事人 第14回 其の二 photo
明日をも知れぬ時期を乗り越え 『サルまん』を制作 これまでのすべてを投入した 10年に1度の仕事で運命が変わった
 
20歳で家を飛び出して以来、フリーランスとして編集の仕事に携わるようになった竹熊さん。最初のうちは楽しんで仕事をやれていたのだが、じきに仕事を干され、お先真っ暗状態に。そんな明日を知れぬ状態をいかにして乗り越え、話題作『サルでも描ける漫画教室』を発表するに至ったのか。いよいよ編集家としてデビューするまでの軌跡に迫った。
編集家 竹熊 健太郎
 

会社に就職するという発想がなかった

 

 俺は小さいころからサラリーマンになる気は全然なかったんです。というよりは俺自身がサラリーマンになるというイメージがもてなかった。それは、俺の父親がサラリーマンだったことが大きいですね。

 俺の父親はいわゆる昭和ひと桁生まれの企業戦士でした。ちょうど日本が高度成長期の頃で、電子部品のメーカーの末端の兵隊として最前線でバリバリ働いてた。だから普段からあまり会わないんですよ。いつ家にいるんだかわからない。俺が起きる前に会社へ行って、寝た後に帰ってくるっていうくらいの働き人間でしたから。ずーっと会社会社で。下手すれば日曜でも出ていきますからね。

 だから親父と遊んだ記憶もほとんどないですね。そんな状態だったから、なんとなく子供心に「ああはなりたくない」みたいなのがあって。いつ遊ぶ時間があるんだって感じでしょ。人として、父親としては立派な人なんですよ。家族をちゃんと養ってね。でも俺にはサラリーマンがおもしろいとは思えなかったんですよね。

 さらに悪いことに、会社の経営が傾いたときに親父がリストラにあったんですよ。40代半ばくらいで。親父はお人良しだったから、貧乏くじ引かされたみたいな……。その頃、俺は高校生でしたが、そういうのを目の当たりにして、さらに強く「ああはなりたくない」=「サラリーマンはイヤだ」と思ったんでしょうね。

 親父もリストラにあう前は「人間は普通に会社に入って、普通に働いて、真面目にコツコツ働くことが尊いんだ」なんてよく言っていたんですよ。それが自分がリストラにあっちゃったことが、かなり人生観を変えたと思うんだ。これだけ会社のために働いて最後はコレかよって思ったはずで。それからは俺の生き方に口は出さなくなりましたね。途中までは結構うるさかったんですけど。

 幸いにして親父はその後すぐに再就職先が決まったので、うちが生活に困るということはなかった。それもサラリーマン志向を鈍らせた遠因といえるかもしれません。ウチは経済的には可もなく不可もなく、中流家庭で不自由なくやってきたので、貧乏というものに対する実感があまりないから恐怖心もなくてね。当時はバブル前夜でバイトもたくさんあったし、会社に属さなくてもなんとか生きていけるんじゃないかって思ってたんでしょうね。

高校卒業後、一浪して桑沢デザイン研究所に入学した竹熊さんだったが、一年で退学してしまう。せっかく受かったただひとつの学校をなぜ退学したか。そこにもやはり「メディアつくり」への欲求が大きく影響していた。

新雑誌創刊スタッフに
母親の呪縛から逃れるため家を出る
 
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21歳当時の竹熊氏。まさにオタク全開といった風貌。桂三枝の「ザ・恋ピューター」というお見合い番組に出たときの写真。当時番組で学生集めのバイトやってたミニコミ仲間に頼まれて出演(写真は「たけくまメモ」より転載。クリックで拡大)

 桑沢でも引き続きミニコミの制作をしてたんですが、ある日、Kっていう知り合いのエロ雑誌(注25を作ってた編集者から「実は今度雑誌を一冊編集することになったから、手伝ってよ」って言われた。もちろん二つ返事で引き受けたんだけど、やり始めたらだんだんそっちの方が忙しくなっちゃってね。学校どころじゃなくなっちゃった。それで学校はもうそれっきりですね。

 まぁデザイナーになる気もなかったしね。本当は雑誌の編集をやりたかったから、そういうチャンスが来たのでそっちに行っちゃえと(笑)。21歳のころですね。ここからフリー人生のスタートです。 学校を辞めたと同時に家を出ました。その雑誌の編集の仕事が決まったからというのもあったんだけど、一番の理由は母親との関係です。浪人時代から、母親との関係はかなり悪化してたんですよ。もう完全に考え方のギャップです。母親は俺のやっていることを全く理解してくれなかったから。しかも過干渉気味の親だったので。

 だからあのまま家にいたらヤバかったです。もう毎日ケンカばかり。あのままいけば金属バットで母親を殴り殺していた可能性すらありますね。

 父親は家からエスケイプしているわけですよ。今思えば仕事に逃避していたとも思える。そのくらいウチは母親が強力だったんです。高度経済成長下での中流家庭にありがちなよくあるパターンですよ。核家族でおじいちゃんやおばあちゃんとは離れて暮らしている。それで親が過干渉だと、子供は逃げ場がないですよね。

 そんな状態でかなり追いつめられていましたから、とにかく家を出ようと。まず、それがあって。まぁ乞食をやっても親を殺すよりはマシだからね(笑)。だから後先考えずに、とにかく家を出ちゃった。

注25 エロ雑誌──この時代を最後に消えていく運命の「自販機アダルト雑誌」。全国の要所要所(といっても人気の少ない場所が多かったが)にこの自販機が設置してあるほど人気があった。アダルト系インディーズ媒体として当時の風俗を語る上で外せないアイテム。竹熊氏が当時仕事をしていた雑誌の版元のアリス出版のように、約30年前には「自販機アダルト雑誌」を主力とした出版社も少なくなかった。

生活はきつかったが仕事は充実
一通りの雑誌編集スキルを習得
 

 でもそこからがキツかった。雑誌の仕事が決まったからっていっても収入はアルバイトに毛が生えたようなものなんですよ。最初は月5万円くらいでした。非常に安い編集経費で、そこから俺のギャラも出ていたんです。だから部屋なんかとても借りられないから友達の家を転々としたりとか。最初の1年くらいは定住先がなかったですね。

 でも仕事は非常におもしろかったです。やっぱり基本的にメディア作りが好きですから。雑誌も好きなように作れてましたし。雑誌の編集は、俺に声をかけてくれた知り合いの当時21歳のKって編集長と、21歳の藤原カムイ(注26)という後にマンガ家になる男の3人でやってたんです。カムイがイラスト、マンガ、レイアウトなどを、俺が文章関係やレイアウトを担当してた。

 原稿執筆は最初は外部のライターに頼んでいたんだけど、最後は「この編集部の3人でやろう」ということになって、それでやっとギャラが10何万になりました。俺は嘱託で正社員じゃないから給料じゃないんですよ。その月刊雑誌の1号あたりの編集経費が全部ひっくるめて70万円くらいでした。当時としても安いですよ。その中からカメラマン代とかモデル代とかの経費や人件費を全部出すわけだから、なるべく経費を抑えようと。だから自分たちでできることはなるべく自分たちでやろうと。カメラマン代がもったいから自分達で写真撮ろうなんてやってましたね。

 経済的なやり繰りは大変でしたけど、おかげで雑誌編集にまつわるひと通りのスキルが身につきました。だから非常に勉強になったんですよ。原稿執筆や撮影だけじゃなくてレイアウトの指定なんかも覚えましたからね。

 そう考えると編集の仕事に必要なものは小規模編集部で半年くらい働けば身に付くんですよ。デザイン学校に1年通ったって基礎的なことしかやりませんから。実務的なことは何もやりませんからね。編集の専門学校にしたって同じです。

注26 藤原カムイ──マンガ家、デザイナー。1959年東京生まれ。桑沢デザイン研究所在学中にデザイングループ「Image Vox」に所属。「白竜」「リザード」「ゼルダ」等のレコードジャケットをデザインした。同校中退後はアリス出版に入り自販機本の編集やレイアウトをする。1981年に『マンガ宝島』にて『バベルの楽園』でマンガ家としてデビュー。その後は『漫画ブリッコ』で多くの短編を発表。代表作に『チョコレートパニック』『ロトの紋章』がある。

生活は苦しかったが、好きなように雑誌を作れて幸せだったと語る竹熊さん。しかしそれも長くは続かなかった。あるトラブルから編集の世界から遠ざかってしまい、アルバイトで糊口をしのぐ毎日に。しかしそんな日々ですら宝の日々だったと振り返る。

警備員のアルバイト 先が見えない暗黒の日々
しかし今振り返ると宝の時期
 

 でも、一緒に雑誌を作っていた編集長が独立して、ひとり編プロというか編プロまがいのことを始めたんです。その後は、彼が出版社から取ってきた仕事のいくつかをもらってたわけ。当時俺の仕事はそれが100%でした。でもその彼と喧嘩分かれしちゃってね。

 なんというか……当時の彼はやたらと人を支配したがるところがあったんです。こちらは反発しようにも、彼から仕事のほとんどをもらっていたということもあってガマンしていたのだけど、それが最後に爆発してしまったんですね。

 それからとたんに仕事がなくなって。以降2年近くはアルバイト生活ですよ。工事現場の警備員とか編集とは全然関係ない仕事ばかりやってました。

 この時期はまさに「明日をも知れない」って感じですね。お先真っ暗で自分がどうなっていくのか全然わかりませんでした。住んでたのは家賃1万9000円の部屋で、もちろん風呂もないしテレビだってなかった。でも警備員のギャラは週払いだったから、生活は何とかなってたんですよ。当時は中野に住んでいたんですが、現場が保谷とかのときは青梅街道を1時間くらいかけてチャリンコで行って、交通費は請求するとかさ。そんなセコイことやってました(笑)。

 雑誌関係の仕事が一切なくなったことで不安や孤独感は確かにあったけど、一応カムイとかの友達はいましたからね。彼は当時は製版屋でバイトしながらマンガ描いてましたしね。

 そもそも俺は楽観的な性格なんですよ。かなり追いつめられたときでも、例えば"自殺しよう"とか思ったことはないしね。本格的な鬱病になったこともないんですよ。鬱になった友達とか見てると、本当につらそうなんだよね。ただ、普通に考えたらああなっても不思議じゃない生活はしてましたよ。

 

 でも今にして思えば、あの時期が俺にとって宝の時期でしたね。いろんなことを考えられましたからね。あと本もたくさん読んだ。

 蓄積の時期でしたね。宮崎駿(注27)さんにもそういう時期があるんですよね。あの人の代表作のひとつ、『ルパン三世・カリオストロの城』(注28)は今でこそ名作っていわれてるけど、当時は興行的に失敗したんだよね。お客さんが入らなくて赤字になっちゃった。で、宮崎さんは数年間劇場アニメ映画を撮れなかったんですよ。匿名でテレビアニメの演出はやっていたけど。彼にもそんな干されてた時期があるんだけど、その時期に宮崎さんは『トトロ』(注29)のスケッチを描いたり、『もののけ姫』(注30)の原型になるような話を書いてた。その後の作品のアイディアをずーっと考えてたわけで、その時期がなかったら今の宮崎さんはないでしょうね。

 巨匠・宮崎駿に比べるとおこがましいんですけど、俺もね、編集の仕事がない時期はいろいろとやりたい本の企画とかを考えてたんですよね。頭の中のイメージトレーニングみたいなことですけど。未だにその頃考えてた企画で温めているものもありますからね。「いつかやるぞ」っていう。

 そういう「やりたいこと」とか「目標」みたいなものがあると、お先真っ暗な状態でもなんとかなるんですよ。それで、たまに仕事がくると採算度外視でやったりしてましたね。本当だったら3日くらいで片付くような仕事をじっくり1週間かけて丁寧にやったりね。

注27 宮崎 駿──アニメーション作家、映画監督、マンガ家。1941年東京生まれ。大学卒業後に東映動画にアニメーターとして入社。1978年「未来少年コナン」で演出家デビュー。1984年「風の谷のナウシカ」で新しいヒロイン像を作り出し話題となる。そして1985年のスタジオジブリ設立後に発表した「となりのトトロ」は大ヒット作品となり、一気に国民的映像作家として認知されていく。

注28 ルパン三世・カリオストロの城──1979年公開の宮崎 駿の初映画監督作品。物語や構成はもちろん、台詞まわしや小道具の使い方などが素晴らしく、現在では誰もが知る人気作品。しかし公開当初は業界やマニアの評価だけが高く、SFアニメ全盛の当時的には興行として失敗。その後、TV放送をキッカケにファンが急増。ヒロインのクラリスは成人向け同人誌に多数取り上げられ、作り手にとってはあまり望まれない形で異常人気を獲得した。当時、「ロリコン」という言葉を流行させたキャラクターでもある。

注29 トトロ──1988年に公開された宮崎 駿監督による劇場アニメ作品「となりのトトロ」のこと。また同作品に登場するキャラクター。幅広い年齢層の人気を獲得した、宮崎監督の出世作。

注30 もののけ姫──1997年に公開された宮崎 駿監督による劇場アニメ作品。室町時代の後期を舞台にした人間と神(祟り神、獣神〈シシガミ〉等、人語を解する獣たち(荒ぶる神々/もののけ)とがそれぞれの存在を懸けて戦う物語。環境破壊に対するアンチテーゼという趣もあった。

インタビューの原体験
 

 あと、警備員のバイトでも今につながる大事な体験をしてるんですよ。俺の仕事の中ではインタビューがひとつの大きな柱なんですが、そのインタビューの原体験みたいなものを警備員時代に体験しているんです。

 工事現場の警備員をやっていたときに、俺の前を毎日通るお婆さんがいた。で、ある日「こんにちは」ってちょっと声をかけたらさ、最初は「えっ!!!」と飛び上がらんばかりに驚いて。でもそのあと俺の方に寄ってきてさ。ダーッと自分の昔の話をし始めた。そのお婆さんは外交官の奥さんらしくて、若い頃は旦那と世界中飛び回っていたとか、今は旦那は死んで毎日ひとりでさびしいんだとかね。

 そのときに思ったのが「老人はいろいろと人生経験があったとしても孤独なんだな」ということで。もっといえば「人は自分の話を聞いてもらいたい生き物なんだな」って。このときの体験がのちに初期の『クイック・ジャパン』(注31)で連載する老人インタビューにつながるんですね。『箆棒(べらぼう)な人々』(注32)っていう一冊の本にもなりましたけどね。

 当時、生活は苦しかったけど、生活費は部屋代以外は切り詰められますからね。あとは死なない程度に飯を食っていればいいから。当時は江古田に住んでたんで、学生街だから安い定食屋とかあったし。100円でラーメン食えたり。なんとかなったんですよ。

 ただアルバイト仲間でちょっとおかしくなっちゃったやつはいましたけどね。九州から上京して筑波大学を中退して、警備員をやってるやつがいたんだけど、彼にはかなり挫折感があった。同じ現場で警備をしていたことがあるんだけど、いきなり現場で暴れだしちゃったことがあってね。挫折感でさ、すごい敗北感があるわけよ。本当だったら筑波大学出ていい会社や官庁に入って、エリートになる予定だったのが、いろいろあって今警備員のアルバイトをやってると。それで結局そいつはノイローゼみたいになって故郷に帰っちゃいましたけどね。幸い俺はああはならなかった。とにかくどんな目にあったとしても、実家に帰るのだけはイヤだったから(笑)。

注31クイック・ジャパン──太田出版が発行するサブカルチャー雑誌。1993年に飛鳥出版の編集者だった赤田祐一が創刊準備号を自費で出版。その翌年に太田出版から創刊号が発売された。現在も続くエンタテイメント性(例えばミュージシャンやその裏方に視点を合わせたロングインタビュー等)を重視した数少ないサブカルチャー雑誌。同誌から派生した雑誌や本も多い(例:「バリヤバ」)。

注32 箆棒(ベラボー)な人々──竹熊氏によるインタビュー著作。「月光仮面」「レインボーマン」等の原作者・川内康範、挿絵画家の石原豪人、怪物虚業家の康 芳夫、芸術家の糸井貫二といった昭和の奇才4人に迫った"サブカルチャー偉人伝"。雑誌『クイック・ジャパン』で連載されたインタビューをまとめたもの。

先の見えないアルバイト生活を送っていた竹熊さんだったが、82年の終わり頃に転機が訪れる。一緒に雑誌を作っていた友人、藤原カムイさんがマンガ家としてデビュー。彼の紹介で編集や執筆の仕事が徐々に増えていった。

雑誌業界に復帰 「編集家」の道へ
 

 俺は運も良くて、知り合った友達も良くてね。雑誌(の編集部)を紹介してもらうという形で仕事が増えていったんです。そう言う意味じゃカムイには頭が上がらないというか感謝しないといけませんよね。

 その後もほとんど友達とか知り合いの紹介ですよ。自分から売り込んだことってほとんどないんです。売り込むと下手に出なきゃならないじゃないですか。こっちが「仕事ください」ってお願いする立場だから、逆に向こうから「コレやってくれ」って言われたらイヤでも断れないじゃないですか。だから結構、俺は向こうから来るまで待っちゃうんですよね。貧乏ならガマンできますが、イヤな仕事はガマンできない(笑)。

 で、そういう人の紹介とかつながりで小学館とも縁ができた。それで『ビッグコミック・スピリッツ』(注33)などのマンガ雑誌の記事ページとかグラビアとかで、ライター仕事をやるようになって。『スピリッツ』に勢いがあった時期で、おもしろかったですよね。いろいろと企画を立てて、ラフ(注34)まで切って。そこでエロ本時代の経験が役に立つわけですよ。原価計算以外は何でもやりましたからね。

注33 スピリッツ──小学館の週刊マンガ雑誌『ビッグコミック・スピリッツ』のこと。1980年の創刊当初は月刊だったが、その後15日と30日に発行される月2回ペースに。そして1986年には週刊となっている。『めぞん一刻』(高橋留美子)、『編集王』(土田世紀)、『東京大学物語』(江川達也)、『伝染るんです』(吉田戦車)、『花男』(松本大洋)など、全盛期には後世に残る名作を数多く生み出している。

注34 ラフ──編集者がデザイナーやライターなどにページの雰囲気を伝えるために書く、イメージ画と指示書。ページに見立てたスペースのどの部分にどんなタイトルを入れるか、もしくはどんな写真をドコにどのくらいの大きさで配置するか、といった情報を記入したもの。

すべてをつぎ込んだ『サルまん』
10年に1度の仕事で運命が変わった
 

 そのうちに相原コージ(注35)くんと知り合って『サルでも描けるマンガ教室』(注36)の企画が持ち上がってきたんだよね。当時の編集長の白井さん(注37)ていう人がリスキーな企画が好きな人でさ(笑)。

 『サルまん』は売り込んだというよりも企画があっさり通っちゃったんです。『スピリッツ』が上り調子だったし、相原コージくんが『コージ苑』(注38)を大ヒットさせた後で何でも企画が通るっていう時期だった(笑)。『コージ苑』は200万部くらいいきましたからね。そういう意味で運が良かったんです。しかも相原くんが週刊でやっていた2本の連載が2本とも終わった時期だったんですよ。本人は、疲れ果てちゃって、1年くらい休みたいと言ってたんだけど、編集部は休ませてくれないと。で、俺と組ませてみようということになったんですね。相原くんとは最初から意気投合したから、楽しみながら作れましたね。

 『サルまん』の構想はけっこう前からもってたんですよ。エロ本時代に藤原カムイとそういうアイディアのバカ話をしていたんですね。「こういう描き方をしてはイケナイという悪例集だけで一冊作れないかな?」みたいな。マンガの描き方のパロディみたいな話をしてたんだよね。マンガの描き方というフォーマットがあれば、普通マンガの描き方の常識として「やってはいけない」っていうことが、「こういうことをやってはいけません」っていうエクスキューズというか、言い訳をつけてできるわけですよ。これはおもしろいんじゃないかなって。

 

 俺の元々の嗜好がパロディ好きとか、雑誌作りのフォーマットそのものが好きとかね。元をたどればそれこそ子供の頃の新聞作りまで戻っちゃうんですけどね。新聞なら新聞というフォーマットが決まっている中で、しかも真面目な事しか載らないという中でバカバカしいことを書いたらおもしろいよねっていう。それが原点ですからね。それをマンガというフォーマットでやったということなんですよ。

 『サルまん』は大ヒットしたというわけではないですが、話題にはなりましたからね。あの作品がある種、自分の運命を変えた仕事とはいえますよね。10年に一度の仕事ができたなっていう手ごたえがあったんですよ。

 高校時代に作ってたミニコミから始まって、エロ本やったりして、本とか雑誌のひと通りの仕事はおぼえた。そうした経験がすべて『サルまん』に投入されているんですよ。それは相原くんも同様で。マンガ家としてね。それまでのキャリアで培ってきたものを全部入れてるんです。

 この作品での俺はどちらかというと編集者的な立場でやってました。といっても自分で絵も描いたし原作も書いてましたけど。あれはちょっと珍しい形式の作品なんですよね。いわゆる原作とマンガが分業していないんですよ。そういう意味じゃ子供の頃からマンガを描いていた自分の経験も入ってるわけですよね。また今度、8月末に復刻版が出ますけどね。

 『サルまん』以降、確かに仕事は増えました。でもそのほとんどは自分のやりたい仕事じゃなかった。さらに俺自身が本当にやりたいと思う企画はなかなか通らない……。しまいには編集とかライター仕事自体におもしろみを感じられなくなって。

 正直言って、あのときはヤバかった。生まれて初めてこのままいったら病院かなというところまで追い詰められましたからね……。

注36 サルでも描ける漫画教室──相原コージ、竹熊健太郎による共著。1990年代、『ビッグコミック・スピリッツ』に連載された。基本設定は相原コージがマンガ家志望の若者として登場し、竹熊健太郎がマンガ家として心構えとテクニック、そしてスピリッツを注入するという熱血スポ根マンガ的なもの(もっとも最初の野望はマンガで世界を支配する、というものだったが……)。「ちんぴょろすぽーん」などの一発ギャグも好評だった。愛称「サルまん」。8月28日には小学館からIKKIコミックス「サルまん サルでも描けるマンガ教室 21世紀愛蔵版(全2巻)」として2度目の復刊が決定。定価1600円でA5版ソフトカバー箱入り。2冊で46ページも増量。

注37 白井さん──現・小学館専務取締役、白井勝也氏のこと。「サルまん」に度々登場する。2005年には『世界の中心で、愛をさけぶ』、『いま、会いにゆきます』をはじめ7本のミリオンセラーを手がけ、書籍部門の業績を大幅に向上させた。名物編集者として多くの作家から信頼されている。ビッグコミック スピリッツ初代編集長。

注38 コージ苑──相原コージによる4コマギャグマンガ作品。第1回は「あ」、第2回は「い」といった感じに連載が続くことにより4コママンガの辞書が完成する、という構成。ただシュールなだけでなく、セオリーを崩すことで新しい面白さを表現した。

 

『サルまん』のようなヒット作を飛ばしたことが、後に苦しい状況を招くことになろうとは竹熊氏自身も予想だにできなかった──。

次回は人生最大のピンチをどう乗り越えたのかに迫ります。乞うご期待!

 
2006.8.7 1 いつの間にかアマからプロへ
2006.8.14 2 10年に1度の仕事で運命が変わった
2006.8.21  3 40代で訪れた人生最大の危機
2006.8.28  3 「生活」と「自己実現」の両方が人生最大の目標

プロフィール

たけくま・けんたろう

1960年、千葉県生まれ。45歳
1981年、21歳からフリーランスとして編集・文筆活動を開始。主活動ジャンルは、マンガとアニメーションを中心としたサブカルチャー領域。新聞、雑誌、書籍、マンガ、Web等で編集、執筆、マンガ原作など幅広く表現活動を展開。主な作品に『さるでも書けるマンガ教室』(8月に21世紀愛蔵版が出版予定)、『庵野秀明パラノ・エヴァンゲリオン』(大田出版)などがある。

自身が運営するブログ「たけくまメモ」は開設からわずか2年足らずで800万アクセスを突破するなど絶大な人気を誇る。

編集・文筆業のほかに、多摩美術大学で「漫画文化論」非常勤講師、桑沢デザイン研究所でゼミ講師として教鞭を取っている。

詳しいプロフィールはこちら

 
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