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第10回
宇都宮健児氏インタビュー(その1/全5回

宇都宮健児氏

サラ金被害者は俺が救う!
絶望の淵から2度這い上がった
落ちこぼれ弁護士の逆襲

弁護士宇都宮 健児

ひたすら社会の闇と戦う弁護士がいる。宇都宮健児59歳。28年間、小さな身体を盾にして、サラ金による苛烈な取り立てから弱者を守ってきた。常につきまとう危険、甚大な労力、もらえる確証のない微々たる報酬。にも関わらず、なぜそこまで体を張れるのか。その姿は漢の中の漢に見えるがしかし、宇都宮氏はいう。私は落ちこぼれ弁護士ですからと──。そのやさしそうな瞳の奥に光る鋼の意思に迫った。

うつのみや・けんじ

1946年(昭和21年) 愛媛県明浜町(現西予市)生まれ 59歳 サラ金問題の草分け的弁護士
東京大学に現役合格(1966年)後、社会運動と出会い弁護士を目指す。1968年に司法試験に一発合格、経済的事情により翌年東大中退、司法修習生となる。71年に弁護士登録。2度のイソ弁生活を経て1983年に独立。以降現在に至るまで、「東京市民法律事務所」を経営する傍ら、サラ金、ヤミ金被害者救済をはじめとする消費者問題に取り組む。 東京弁護士会法律相談センター運営委員会委員長、東京弁護士会民事介入暴力対策特別委員会委員長、東京弁護士会外国人人権救済センター運営協議会議長、日弁連消費者問題対策委員会委員長、東京弁護士会副会長などを歴任。現在は全国クレジット・サラ金・商工ローンの高金利引下げを求める全国連絡会代表幹事、武富士対策連絡会議代表、全国ヤミ金融対策会議代表幹事、日弁連上限金利引き下げ実現本部本部長代行の要職に就いている。
■被害者救済のために手がけた主な事件/ 豊田商事事件・地下鉄サリン事件・KKC事件・オレンジ共済・全国八葉物流事件・旧五菱会のヤミ金融事件
【主な著書】 ●『サラ金地獄からの脱出法』(自由国民社) ●『消費者金融—実態と救済』(岩波書店) ●『自己破産と借金地獄脱出法』(主婦と生活社) ●『自己破産と借金整理法』(自由国民社) ●『ヤミ金融撃退マニュアル 恐るべき実態と撃退法』(花伝社)
※宮部みゆきの最高傑作との誉れも高い、多重債務問題をテーマにした作品『火車』に登場する弁護士のモデルにもなっている。

弁護士を目指したのは 親の背中を見て育ったから

弁護士になって30年以上経ちますが、最初から弁護士を目指していたわけじゃないんですね。弁護士という仕事は大学に入ってから初めてその存在を知ったくらいですから(笑)。元をたどれば、幼少時代から親の背中を見て育ったことが大きいんじゃないかと思います。

私の父親は復員軍人、しかも傷痍軍人だったんです。若いときに兵隊に行って、10年くらい戦争に従事したんですが、途中で爆撃機の操縦士になってね。それで終戦直前にアメリカの戦闘機に打たれて、足を負傷したんです。野戦病院に入っているときに終戦になって命が助かるわけですけど、同僚のほとんどは特攻隊で死んでいます。

で終戦後、田舎へ帰ってきた。田舎は愛媛県の小さな漁村でしてね。すごく畑の少ないところで、海岸は段々畑でね。そこで農家をやっていたんですね。でも父は7人兄弟の6番目だったから、田舎に帰ってきても畑がないわけですよ。だから他人の畑を借りて芋や麦を作ったりしてたんですね。

それから夏なんかは、伝馬船、櫓(ろ)で漕ぐ船ですね、それに乗って釣りをしてました。夕方、浜を出て行くときに、近くの海で「モイカ」と呼んでたイカを釣ってね。それをエサにして朝方ハマチを釣るんです。ハマチを釣るときは流し釣りといって、僕が櫓で船を漕いで親父が釣ると。夕方から朝方までは沖に錨を降ろして船を固定して、アジやサバ、イサキ、タチウオなどを釣りました。夜中の12時頃までは一緒に付き合って、その後は船の中で寝てました。親父は朝まで釣る。釣った魚を売って家計の足しにしてたんですね。

海辺から山の上へ いちから生活する場を開拓

でもそういう生活にはやはり限界があって。基本的には自前の畑がないし、まして僕の下には2人の妹がいるんですが、子どもが3人もいたら、やっぱり食べていけないんですよ。それで、私が小学校3年のときに、一家で大分県の国東半島に開拓入植したんです。海辺から山の上へ。愛媛県の漁村から、漁船にいろんな家財道具、猫とかヤギとかを積んで海を渡ってね。当時、終戦直後は食糧が足りないから、食糧増産で開拓を奨励していたんですよね。

山の中腹は険しいですから、山の頂上近くのなだらかなところを開墾して畑にしたわけです。だから入植した当時は、電気なんてもちろん引かれてない。家も天井なんかありませんでした。そういう状況で海から山の開墾生活が始まったわけです。

なんせイチから生活する場を切り開いていかなければならないわけですから、何かと大変でした。木を一本引っこ抜くのも一苦労。今みたいにブルトーザーとか重機があれば大きな木でも簡単に根こそぎやれますけど、昔はそんなもんはないですからね。当時は「バチ」と呼んでいた重くて頑丈な鍬で開墾してました。まず木の周りを1メーターくらい掘り起こすんですね。周りにはだいたいいろんな竹とか木が生えていますから、その長い根を引っこ抜いてね。そしたら木や竹の根を掘り起こした底の土が畑になるわけですね。

そうやってひと鍬ひと鍬起こして畑にしていくような作業をやったわけです。僕が小学校3年のころね。だいたい父親は朝の3時とか4時に起きて仕事を始めて、星が出るころやめる、そういう仕事をひたすらやってたんです。特に冬場はつらい。地中にはたくさんの石がありますから、鍬が当たると衝撃で手がしびれるんですね。それを繰り返してると手の皮が裂けるんです。下に肉なんかが見えてね。でもそこにワセリンをすりこんで、またやる。非常につらい作業だったんだけど、親父は脚をケガしていながらグチひとつ言わず黙々と働いてました。

開墾して畑ができて、作物ができると子供たち含めて家族総出で収穫作業や出荷作業をやってね。生活は苦しかったけれど、家族の連帯感はありました。そういう親の姿を間近で見て育ったんですね。

最初の夢は野球選手 中学から親元を離れる

私が一番最初になりたいと思ったのは、野球選手だったんですね(笑)。僕が小学校の3年か4年のときに、立教大学の学生だった長島茂雄さんが巨人に入団したんだけど、そのときの契約金が2000万円だった。当時2000万っていえば家がすぐ買えるような金額。それを見て野球選手というのはすごくお金になると(笑)。それで自分は野球選手になって、リッチになって親孝行しようと思って小学校3年から野球を始めたんです。

勉強の成績も良かったですね。私たちは第一次団塊の世代、戦後のベビーブームでね。親も地域もすごく教育熱心だったんです。当然、親とか学校の先生は、中学進学は教育レベルの高い都会の学校に行かせたらどうかっていう話をしていた。

それで、母親の兄弟が熊本市内にいたから、僕は中学から叔父さんの家に預けられて、熊本の中学に通うことになったんです。もちろん野球部にも入りました。親や教師としては教育のためだったんですが、むしろ僕は「野球をやるために」という気持ちが強かったんですね。

最初の挫折を経験 野球の夢は東大に変わった

当時、熊本は九州の中でも野球王国だった。巨人の「神様」川上哲治はじめ、有名なプロ野球選手を数多く輩出してたんです。野球選手になるためには野球に強いところにいかなきゃならないという気持ちで、熊本に行って中学に入学してすぐ野球部に入った。でも部員が100人以上いたんです。練習が非常にキツかったし、周りには中学生のくせに身長180cmとかね、そういうすごいのがゴロゴロいてね。その中でレギュラーを取るということは並大抵のことじゃないわけです。私は体が小さいですしね。でも1年間くらいは頑張ってみたんですが、これはとても無理だと、がっくりきましてね、挫折しちゃったんです。

それでしょうがないから勉強を頑張ろうと思ったわけです(笑)。勉強で身を立てようと。ただ、九州は文武両道の思想が強いところですから、勉強だけできてもダメ。それで中学2年から卓球部に入ったんです。結局この卓球は高校、大学でもずっと続けました。

高校は熊本県の受験校に入りました。そこで卓球をやりながら東大の法学部を目指して勉強しました。野球の夢が東大に変わったようなもので、当然東大に入ったあとは、官僚になるか大銀行とか大企業に入って、早く金持ちになって親に楽をさせたい、貧乏から脱出したい、そういう気持ちが第一だったわけです。受験する当時は弁護士になりたいとは全然思ってなかったんです。そういう職業があることもよく知りませんでしたしね。ただ法学部に入ればエリートコースに乗れてリッチになれると思ってたんですね。

高校入学後、卓球と平行して猛勉強を開始した宇都宮氏はストレートで東大法学部に入学。しかし世は学生運動の真っ只中。この時代の空気、学生たちとの語らいの中で、宇都宮氏の価値観は180度転換。初めて弁護士という職業を意識した。

ストレートで東大合格 何のために学問をする?

ところが東京大学に入って、ものの考え方や将来の夢はガラっと変わりました。私が大学に入ったのは昭和40年(1965年)。家が貧乏だったので寮費が安い東大駒場寮に入ったんです。

ちょうど大学に入学したのは日韓条約が締結された年で、大学ではかなり反対運動が強くてね。その学生運動の拠点が東大駒場寮だったんです。そこで初めて社会運動っていうのに目が行った。

それまでは、いかに貧乏から脱出するかがテーマで、早く大蔵省とか通産省などの官僚、あるいは大企業の幹部になってリッチになるということを目標にしてたんだけど、駒場寮で学生運動、社会問題に初めて接することによって、どう生きるか、何のために学問するのかってことをだんだん考えるようになったんですね。

そこがまず最初の転換点でしたね。実際に学生運動には積極的に参加しなかったんだけど、よく寮で仲間と酒を飲みつつ徹夜で議論したりする中で、だんだん自分自身が学んだことをどういうふうに社会のために生かすのかということを考えるようになった。

学生運動の中で 「弁護士」を初めて意識

いろいろ話をする中で、どうも世の中には貧しい人がたくさんいる、東京にも山谷のようなところがあるしね。また考えてみたら私のいとことかはとこは、中卒でみんな働いている。集団就職でね。周りの開拓農家はみんな貧しいわけですよ。そんな中、私の家だけ豊かになったとしても、それでいいのかというような疑問ですね。

だからやはり学んだことを、自分だけのためじゃなくて、自分の周りの同じような貧しい人びとのために役立てるのが、人間として筋じゃないかとかね、そういうことをだんだん考えるようになったんです。

じゃあどういうところに行ったらいいんだって考えたときに、やっぱり官庁とか企業とか、どうもそういうもんじゃないぞと。考えてみたら、大企業に入ったら、大組織の中に組み込まれちゃうわけですよね。ひたすら利益を追求するために。そういうのは非常に窮屈なような気がした。

でも仲間の中に弁護士を目指す人がいて、その話を聞くと、弁護士は非常に自由であり、自分が学んだ法律の知識を人のために役立てることが可能なんじゃないかとだんだん思えてきて、それで弁護士を目指して司法試験の勉強をするようになったんです。

司法試験、週100時間の猛勉強 背水の陣で在学中に一発合格識

卓球も続けていて、東大卓球部のレギュラーとして大学3年の秋のリーグ戦までやりました。それですぱっと卓球はやめて司法試験の勉強一本に打ち込んだんです。

勉強は東大受験のときの10倍くらいはやりましたね。1週間に100時間くらい勉強してました。そのため体重が7、8キロ落ちて、良かった視力が落ちてメガネをかけるようになりました。そこまで頑張れたバックボーンになったのは、父親の働いている姿でした。朝3時4時に起きて、夜の8時9時まで働くと。文句も言わずに黙々とね。それに比べれば勉強なんか簡単なことなんですよ。せいぜい体重が減って視力が落ちるくらい。それで死ぬことはないですからね。

また、ウチは貧乏でしたから、一発で合格しなきゃならなかった。親に迷惑はかけられないから。司法試験を受ける人の中には5回も6回もだらだらやってるのもいるけど、うちはそんな経済的余裕なんてないですからね。受けるなら一回で受からないかんと。それで受からなきゃ司法試験はすぱっとやめて、他の道に行くしかないと思ってた。だから背水の陣。人間、そういうのは重要ですよ、だらだらやっててもしょうがないですからね。

でも当時東大法学部で弁護士を目指すのは異端だったんですよ。大蔵省や通産省の官僚とか第一勧銀(当時。現みずほ銀行)などの大企業を目指すのが一般的だったんです。

親を思って東大中退 屈辱のイソ弁生活のスタート

22歳のときに大学を中退して司法研修所に入りました。中退したのは経済的な理由です。当時大学でいろいろ紛争があって、卒業試験が伸びたりしてたんです。奨学金をもらったり、3年から授業料も免除されてたんですが、それでも生活費は親から仕送りしてもらってました。傷痍軍人だった父親の恩給からね。でも司法修習生になると、公務員と同じ扱いで給料が出るんですよ。だから親に迷惑をかけないで、自活できるんですね。それで卒業よりも司法修習生の道を選んだんです。

実は今でも東大法学部から「卒業生のみなさまへ」っていう手紙が来るんですよ(笑)。卒業名簿を作るから連絡先を教えろとか、東大の法科大学院に寄付してくれとか。向こうはてっきり卒業していると思ってるんだろうけど、私、中退してますからね(笑)。

司法研修所を出て、最初の弁護士事務所に入ったのは24歳のときでした。弁護士の世界については具体的なイメージがなくって、弁護士になれば自動的にメシが食えるようになると思っていた。ところが、それは大きな間違いだったんです。

見事在学中に司法試験に一発合格し、22歳の若さで司法の世界へと身を投じていった宇都宮氏。しかし順風満帆のエリートコースもここまでだった──。 次週は、挫折と屈辱の12年間、そして弁護士を辞めようとまで思った「絶望」からどう這い上がったのかに迫ります。

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