キャリア&転職研究室|魂の仕事人|第6回新聞記者・作家 吉岡逸夫さん-その3-カンボジアで「世界」が…

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魂の仕事人 魂の仕事人 第6回 其の三 photo
カンボジアで「世界」が見えた 1年かけてカメラマンから記者に転向 「王様は裸」ってことを伝えたい
新聞社にカメラマンとして入社した吉岡さんはがむしゃらに働いた。するとチャンスが訪れた。海外取材からまた新たな道が開けてきた。
新聞記者・ノンフィクション作家・ドキュメンタリー映画監督・写真家 吉岡逸夫
 
気がついたら戦場カメラマンに
 

 同じ報道写真を撮るのでも、媒体、会社によって全然違うから、まずは「新聞社のカメラマン」という仕事に慣れるのに必死だった。仕事の内容の他に、社風とかもあるからね。でも先輩や上司に「こうしろ」って言われても、自分が「それは違うんじゃないか」って思ったら従わずに、自分のやり方で撮ってたな。

 あとがむしゃらに働いてたのは、離婚をしたせいでもあったんだけどね。あのころは金もなかったし、精神的にも仕事に打ち込むしかなかったから……。写真だけじゃなく簡単な記事も書いてたんだよ。表現者として記事を書きたいと思ったんじゃなくて、書くと取材費で食事代を浮かせることができたから。ただそれだけ。

 でもオレは自分のために仕事に没頭してたんだけど、それが会社には認められて、ご褒美で東欧取材に行かせてもらえることになった。日曜版の「世界のマーケット」っていう、世界の市場を紹介する企画の取材だったんだけど、ちょうどそのころベルリンの壁が崩壊寸前で、東ベルリンから市民が逃げ出したりし始めたころでさ。おもしろいからそっちも撮って本社に送ったら「あいつは市場の取材で行ってるのに、ニュースを撮ってきた」ってみんなびっくりしてさ。それがきっかけとなってその後湾岸戦争とかアフガン、イラク、ルワンダとかの紛争取材に呼ばれるようになったんだ。

 オレ自身も戦場取材は好きだったんだよね。普通に暮らしてたら絶対に味わえない、非日常の最たる世界だから、やればやるほどおもしろくなってくる。どんどん刺激が欲しくなって危ないところへ行きたくなるんだ。危険であればあるほど生の充実感を得られるっていうのかな。だから何度か死にそうなメにあったよ。

 湾岸戦争ではオレめがけて降ってきたスカッドミサイルをパトリオット迎撃ミサイルが目の前で撃墜した、なんてこともあった。そのときはさすがに冷や汗をかいたけど、「目撃した!」という興奮と喜びを感じたよね。

 だから少なくともオレは使命感を持って戦争取材をしてたんじゃない。オレ自身がもっと刺激的なものを見たいから行ってたんだな。それは人間の生理だと思うよ。

 そういう写真を撮ってたら朝日新聞からウチにこないかって話が来てさ。朝日の編集委員が2人がかりでオレを引き抜こうとしたんだよ。39歳ころだったかな。もし転職すると給料が1.5倍くらい上がるから一度は乗り気になったよ。その頃高いマンション買ってとにかく金がなかったからさ。だけど、朝日の現場のカメラマンたちがNOって言ったらしいんだ。「歳を食いすぎてるから使いづらい」って(笑)。

 

新聞用の取材の合間を縫って、小型ビデオカメラを手にアフガンの子供たちを撮影する吉岡さん。後にドキュメンタリー映画『アフガン 戦場の旅』として劇場公開された。アフガニスタン・カブールにて

 

イラク戦争終結から3カ月後、吉岡さんは小学2年生の愛娘を連れてイラクで取材活動を展開。後にドキュメンタリー映画『戦場の夏休み』として劇場公開

 
戦後のイラクを取材中の吉岡さん。イラク・バグダッドにて
 
ことあるごとに戦場取材に駆り出され自身でも喜びを感じていた吉岡さんにまたしても大きな転機が訪れる。1992年のカンボジアPKOへの自衛隊派遣。カメラマンとして取材に行ったカンボジアで「世界の見え方が変わった」。そしてカメラを捨てる決意をする。
「今なら書ける」 カンボジアで開眼
 
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 戦場を駆け回りながらも岡村昭彦さんの言葉はずっとオレの頭に刺さってた。「写真はシャッター以前が大事」っていうね。それに対抗するように、ずっとオレなりの報道写真のあり方を考えてた。

 その結果、シャッター以前にアングルを決めるのではなく、現場で何が大切なのか感じて、発見して、最良のアングルで撮る、そういうオレなりの撮影スタイルを編み出せたんだ。体験を同時にフィルムに収める、いうなれば現在進行形の撮り方だよね。そこからは自信をもって写真を撮れるようになった。

 報道に携わる者としてものすごい転機になったのはカンボジアだね。1992年、カンボジアへPKOの取材(注1)で行ったんだけど、そこで大きな発見があった。
カンボジア人と接したとき、彼らの無意識が美しいって思ったの。それはカンボジアには教育がなかったからだよ。教育を受けていない人間はこんなに美しいのかって思ったんだ。教育がなくても人ってこんなにキレイじゃないか。ああ、教育っていうのはヒトを汚していくんだなぁ、と思ったんだよね。

 つまりその発見を通して、人類がどう動いてるか見えたってことだよ。自分なりにね。人類は無意識から意識の世界へ動いてる。言葉で言えばね。カンボジア人やアフリカ人は無意識の中で生きてる。一方、日本人やアメリカ人は意識の中で生きようとしている。世の事象を全部、言葉(意識的)にしようとしてるんだなって。それが近代というもの。人類は、言葉のない無意識の世界から意識的な近代に向かっているんだと思ったときに、いろんなことに焦点が合ってきた。だから、見えてきたものをそのまま書けばいいんだって思った。それまでもちょこちょこ記事を書いていたんだけど、いまいち自信がなかった。自分の言葉で書いている気がしなかったんだ。でもこのときは、初めて自分の言葉で書ける、書きたいと思ったんだ。

(注1)1992年、PKO法に基づき、カンボジア内戦を終結させるため、戦後初めて自衛隊が海外に派兵された。このとき吉岡さんが撮った写真が東京写真記者協会賞を受賞

1年間かかって上司を説得
 
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 記者になりたいと思ったのはもうひとつ理由があった。そのころ新聞カメラマンとしての限界が見えてたんだ。もう新聞カメラマンとしてのオレは行くところまで行ってるなぁと。入社した当初は新聞写真が何であるかっていうのを知りたかったんだけど、それが見えてきたんだよね。こういうときはこうやって撮ればいいんだっていう自分のセオリーの中で写真を撮れるようになって。このまま撮ってても先はもうないなって思ったんだ。

 かといって新聞社のカメラマンとしてではなくて自分の写真だけで食えるかといったら、それはムリだと思った。だから「フリーになる」という選択肢はオレにはなかったし、今もない。フリーは恐いよ。仕事がなくなったら即、生活が苦しくなるからね。子供の頃、親父の事業が失敗して極貧生活を送ったから、その恐怖心がいまだに残ってるのかもしれない。家族をそういう悲惨なメにあわせたくないからね。

 フリーになる自信もない以上、会社にいるしかないんだけど、このまま伸び悩み感を抱えたまま写真を撮り続けるのはつまんない。そして40歳ころからデスクワークに入っちゃうから、あまり現場に出られない。そんなのさらにつまんないじゃん。つまんないことはやりたくない。でもきっと記者やったら面白いんだろうな、って思ったんよね。イチから記者になると現場に出られるし。おもしろいかかどうかっていうことがオレの行動基準だから。(笑)

 それでカンボジアから帰って編集局長や重役に記者に転向させてくれってお願いしたんだ。でも前例がないからなかなか局長たちは首を立てに振らなかった。「なに考えてるんだおまえは!」って怒鳴られたけど、でも土下座とかしつつ、粘り続けてたらとうとう局長たちも折れてね。記者にしてくれたんだ。説得するのに1年かかったよ。

1995年、念願かなって横浜支局の地方記者として新たなスタートを切った吉岡さん。このとき43歳。新人記者と同じく、警察署周りを通して取材のイロハを学んでいった。しかし1年かけて局長たちを説得してなった記者もそれほど魅力的な職業ではなかった。
『漂泊のルワンダ』で開高健賞奨励賞を受賞
 
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 記者の仕事は全然充実してなかったということもないんだけど、1年半くらいやったら見えてきちゃったってことなんだよね。新聞記者っていう仕事がね。

 イヤだったのは年中ポケベルが鳴ること。オレの場合、幸福感ていうのはリズムなんだよ。ポケベルというのはそのリズムを壊すんだよね。それが一番イヤだった。

 そもそも記者になりたいと思ったのも、記者の世界を知りたかったから。それが1年半くらいしたら「ああ、記者ってこんなもんか」って分かってきた。新聞記者は毎日やってることが細かい仕事なんだよ。記事の基本は10行くらいの「どこそこでひったくりがあった。被害者はだれそれで被害額はいくらで」とか、「どこそこで火事があって、何平米焼けて何人死んだ」とかっていう短い記事。それを書くためにいろんな取材や調査をしなきゃならんからね。

 だんだん、そうじゃない何かをやりたいと思うようになった。もっとじっくり腰をすえて長いものを書きたいと。そのときに、写真部にいるときに行ったルワンダのPKO取材(注2)で感じたことを書いてたのが途中だったから、「あれを仕上げたい」って書き始めた。それが『漂泊のルワンダ』。開高健賞奨励賞を取れたんだけど、カメラからペンに持ち替えたのは正解だったって思えたのがよかったかな。オレは間違ってなかったって思えたのがね。

(注2)1992年、アフリカのルワンダで内戦が勃発。1994年、人道的支援の名目の元、自衛隊が派兵された。このとき撮った写真で前年のカンボジアに引き続き、東京写真記者協会賞を受賞

支局で記者生活を2年送ったのち、本社の芸能部へ異動、そして現在は社会部の記者として活躍中。そんな吉岡さんにとっての「新聞記者であるということ」とは——。
事件も芸能も戦争も同じ
 

 よく社会部と芸能部の仕事は全然違いますよねって言われるんだけど、オレにしてみれば全部一緒なんだよ。事件も芸能も戦争も。興味を引かれた対象ってことで同じだし、そもそも人間のやることだから、全部つながってるんだよ。だからオレにとってはネタは一緒で切り方が違うだけ。芸能的な切り方をするか、社会部的な切り方をするか、生活部な切り方をするか。

 例えばイラクやアフガンのことだって芸能面に書くよ。芸能部記者のときアフガンに行ってるからね。会社が「アフガンに行ってくれ」って言うんだよ。芸能にいるのに。名目上は社会部の応援として行く。でも社会部用にも原稿書くけど、芸能用も書くよ、ということなんだよね。オレとしてはどっちでもいいんだ。そんなことは。カブールのTV局のことを社会部的に書こうと思えば書けるし、芸能的に書こうと思えば書けるんだよね。一緒なんだということ。それは。人間のやること、そんなに変わらないよ。

 だから他の記者から「部が変わってもやってることいつも同じだね」ってよく言われるんだよ。あと「吉岡の記事って、誰が書いたかすぐわかる」って。匂うって。「吉岡の匂いがする」って(笑)。

「王様は裸ですよ」ってことを伝えたい
 
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 オレにとってのスクープは「王様は裸ですよ」ってことなんだよね。それを言いたい。「王様は裸ですよ」っていう現象が世の中にいっぱいあるわけだ。「それ、おかしいんじゃないの?」っていうことが。

 例えば、9.11の同時爆破テロの報復でアメリカがイラクやアフガンを空爆したとき、メディアは「誤爆だ」って騒いでたでしょ。オレ、イラクに行って見たんだけど、誤爆なんかあまりないんだよね。オレが調べた限り全部、アメリカは目標を狙って撃ってるし、撃った理由が必ずある。近所に住んでるイラク人に、「なんでココ撃ったの?」って聞くと「ココに国防大臣がいたんだよ」って言うんだもん。スーパーマーケットがやられたときも、TVなんかで「なんでスーパーマーケットがやられてるんでしょう」みたいに言ってるけど、そんなもんもその辺の人に聞けばすぐわかる。そしたら「スーパーマーケットの地下に武器を隠してた」って。そういう情報を全部アメリカは持ってるんだよ。だから撃ってるんだよね。

 そういうことをメディアは報じないんだよね。みんなアメリカが悪いとかさ、民間人がやられてるって方向にもっていきたいがためにやってるんだよ。

 確かに民間人が犠牲になっているのは事実なんだけど、アメリカとしては高官や武器庫を撃って戦争を早く終わらせたい。だから狙って撃つ。民間人がいるのを承知でね。それに関してオレがどう思うか? それは記者としてのオレが言うことじゃないよ。それはオレが個人的に感じることだから。それがいいとか悪いとかは言わない。

 ただメディアが「誤爆だ」って騒いでるときに、「これ誤爆じゃないよ」って伝えたいんだよ。そういえば不謹慎だって言われるかもしれないけど、オレが見たら誤爆じゃないんだもの。それだけのことだよ。みんなが「王様、きれいな衣装ですね」って言ってるときにさぁ、「裸じゃん」って言いたくなるじゃない。ただ現実がこうだっていうのを伝えたいだけなんだ。いい悪いは関係ないんだよ。

 他にもそういう現象がいっぱい起こってる。なんでみんな見たまんま言わないんだろうって。だから「裸の王様」って物語は、オレにとっては実話なんだよ。おとぎ話でも何でもない。実話なんだ。

 

善悪を抜きにして現実を伝えたい。そう語る吉岡さんですが、新聞というマスメディアで「見たまんま」を書くのは至難の業です。 だから吉岡さんは「王様、裸じゃん」を本に書いたり、映画に撮ったりします。

そんな吉岡さんですが、意外にも自身のことを典型的なサラリーマンといいます。サラリーマン道を追及しているとも。

そのやり方は、まさにサラリーマンとしての究極の処世術でした。
最終回の次週では、サラリーマンとしての幸福な生き方、何のために、誰のために働くか、についてじっくり語っていただきます。

メディア業界人だけじゃなく、すべての会社員必読ですよ!

 
2005.12.5リリース 1 放浪の始まりは 青年海外協力隊
2005.12.12リリース 2 人生を変えた 二度目のエチオピア
NEW!2005.12.19リリース 3 カンボジアで記者転向を決意
NEW!2005.12.26リリース 4 サラリーマン・ジャーナリズムを追求

プロフィール
 
よしおか いつお

1952年、愛媛県生まれ。高校卒業後、写真専門学校で写真と映像を2年間勉強。

卒業後、青年海外協力隊に入隊、エチオピアで2年間活動。

帰国後CM制作会社に入社するも1年で退職。再びエチオピアへ。

1年後帰国、さまざまなアルバイトを経験しながら数10社の求人に応募。旅行専門雑誌の編集部員としてある出版社に就職。

青年海外協力隊事務局から紹介された中日新聞のカメラマン募集に応募して内定。報道カメラマンとしてイベント、国内の事故、事件の取材からイラク、アフガン、カンボジアなどの紛争地を駆け回る戦場カメラマンとして活躍。2年連続で日本写真家協会賞を受賞。

43歳で記者に転向。地方記者、芸能記者を経験し、現在は東京新聞社会部記者。首都圏の話題を発掘し、カラーで紹介する東京新聞の「売り物」ページである「TOKYO発」担当。「首都圏の話題を発掘」する企画ページにも関わらずイラク、パナマ、コスタリカなどを取材するなど、その活動はまさにボーダレス。部署、国境を軽々越え、興味の赴くままに動くフットワークの軽さはいまだ健在。

会社員としての仕事以外にも作品多数。支局時代に書いた『漂泊のルワンダ』が開高健奨励賞を受賞。そのほか『人質—イラク人質事件の嘘と実』『いきあたりバッチリ』『厳戒下のカンボジアを行く』『イスラム銭湯記—お風呂から眺めたアフガン、NY、イラク戦争』など10冊の著作に加え、ドキュメンタリー映画『笑うイラク魂』『戦場の夏休み』『人質』なども製作している。

しかし本人は「典型的なサラリーマン」と語る53歳。

 
 
おすすめ!
 

『いきあたりバッチリ』(新潮社)
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報道界のバガボンド・吉岡逸夫さんが「書かずに死ねるか!」との思いで書いた半生記。このインタビューでは書ききれず泣く泣くボツにした、吉岡家の壮絶話、世界をまたにかけた就職活動話、コロンビア大学大学院留学時代の話、戦場カメラマン時代の話、そして結婚、離婚、家族の話など、波乱万丈のおもしろエピソード満載の一冊。「落ちこぼれでもここまでできる」、「信念は曲げてもいい」、「強くなくても生きていける」、「『思えばかなう』なんて大ウソだ」など珠玉の名言多数。

 
 
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photo 本当にやりたいことがあったら、粘りに粘って、土下座してでもやる! 本当にやりたいことがあったら、粘りに粘って、土下座してでもやる! 本当にやりたいことがあったら、粘りに粘って、土下座してでもやる!
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協力/ヨシ・オカノ(中沢ゴロー事務所)
 

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