2年ぶりに帰った日本はほんとにイヤだった。行く前より一層イヤな感じがしたね。日本は故郷じゃないって本気で思ったよ。
とりあえず協力隊の宿舎で寝泊りさせてもらってたんだけど、そこも数カ月したら「住むところくらい自分で探せ!」って夜中に追い出されてね。しょうがないから友達のアパートに転がり込んで。それから就職活動したんだけど、職が見つかるまで半年かかったんだよね。協力隊の経験なんてあまり売りにはならなかった。
就職したのはテレビCMを作ってる制作会社。これがキツかった。最初はアシスタント・ディレクター(AD)から始めるんだけど、ADって奴隷だからね。徹夜なんて当たり前、いったん撮影に入るとメシを食ったりフロに入る時間すらない。プロデューサーやクライアントは神様だからいくら理不尽なことを言われても従うしかない。プライドも粉々にされたね。それでいて給料は食ってくのが精一杯のレベル。そうこうしているうちにストレス性胃炎になっちゃって、もう限界だって思ったところに2度目のエチオピアの話が来たんだよね……。1回目のエチオピアで一緒に仕事をしていた国営テレビ局のプロデューサーで、当時エチオピアの難民救済委員会で広報の仕事をしている人から手紙が届いてさ。広報部のPRアドバイザーとして手伝ってほしいって書かれてあったんだ。
行こうかどうしようか、すごく悩んだよ。途上国に長くいると日本に帰ってきたとき使い物にならなくなるとよく言われてたから。日本の進歩のスピードが激しいから、のんびりしたところに長くいると使い物にならなくなるって。結果からいうとまぁ、あれウソなんだけどね(笑)。ああやって脅してるだけなんだよ。2年後帰ってきたときに、日本の進歩がそんなにすごいとは思わなかった。何も変わってない気がしたよ。
それに行くならCM制作会社を辞めなきゃいけない。当時は今みたいに転職が普通じゃなかったから、途中で会社を辞めるっていうのは世間では根性がないみたいに思われるわけ。
だからCM会社を辞めたときは挫折感はあったよ。最初はやっぱり「オレはCMディレクターになるんだ」って思って入るわけじゃん。でも1年しか続かなかった。情けないと思ったね。10年我慢すればイッパシの一人前のCMディレクターになれると言われて入ったのを辞めたわけだから。でもこんなことをやって、自分の青春を10年潰して、がんばってCMディレクターになったところで、たかが知れてるなと思ったんだ。こんなことで自分の青春を潰したくなかった。商業主義にもイヤ気がさしてたし。かといって、自分が一体何がやりたいのか全く分からないし……。将来の目的がなかった。相変わらず不安だったよね。
それでも行こうと思ったのは、岡村さんの存在が大きかった。あの人の「報道写真はシャッター以前」っていう言葉がずっと頭に刺さってて。被写体を理解するまでシャッターを押しちゃいけないんだったら頭の悪い俺はいつまでたっても撮れない。そうじゃない撮り方、劣等生ならではの撮り方が必ずあるはずだって。それを確立したかった。だから2度目のエチオピアでは本気で報道写真を撮ろうと思った。岡村さんへの、そして自分への挑戦だよね。
でも本音の部分では、目的がなかったものだから、仕方ないから何か形に残したかった。だから写真を撮ったんだと思う。何かをつかんでこないと日本に帰ってきて使い物にならなくなるんじゃないか……と思ったわけ。だから2回目も半分逃避といえるかもしれないね。
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