キャリア&転職研究室|魂の仕事人|第5回ドキュメンタリー作家 森達也さん-その2-撮り終えたら田舎へ…

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魂の仕事人 魂の仕事人 第5回 其の二 photo
組織と契約、解除を繰り返しながら 撮り続けたオウム・ドキュメンタリー でも撮り終えたら田舎へ帰るつもりだった
大学卒業から8年、森さんは31歳でテレビ番組制作会社に入社。ディレクターとして念願の映像関係の仕事にバリバリ打ち込んだのかと思いきや……。その会社も長くは続かなかった。
ドキュメンタリー作家 森達也
 
やりたい企画を実現するために退職 社会に出ることが怖かった
 
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 最初はやっぱり、番組ってこうやってできるのかって驚くことばかりで。それとテレビドキュメンタリー制作の現場って、普通では行けないようなところに行けたり、会えないような人に会えたりするんですよね。それがおもしろくて。でも、そういうおもしろさって、だんだん慣れていくじゃないですか? 続けていくうちに、またつまんなくなってきちゃって。

 入社したのが31歳でしょう? 当然最初はアシスタント・ディレクター(以下AD)から入るわけですが、普通、31のADなんていませんからね。ほとんどのディレクターは僕より年下。30過ぎのADなんて使いにくいし、そもそも何でこいつは30過ぎでADなんだ?って思うだろうし。その辺の人間関係がね、ちょっとうっとうしくなったっていうのもありますよね。

 

 でも決定的だったのが、やりたい企画ができなかったことです。『小人プロレス』のドキュメンタリー企画(注1)をやりたくて社内のプロデューサーに企画を上げたんですが、「小人の企画なんて、(テレビ)局にもっていけるわけないだろ」って一蹴されてしまって。障害者を扱った番組はNGってことじゃないんですよ。特にテレビ・ドキュメンタリーには、「障害者モノ」とか「難病モノ」とか、そんな不謹慎な呼称が定着しているくらいよくありますから。でもなぜか、小人症だけはダメだったんです。みんな黙り込んじゃう。その理由を明確に説明できる人はいなくて、「小人はちょっと……」みたいな。思うけど中途半端なんですね、小人って。実際に小人症だけじゃ、障害者として行政からは認定されづらいんです。さらに「プロレス」というジャンルも、企画実現を難しくしちゃったみたいで。あるプロデューサーからは「障害を売り物にしているからダメだ!」って言われました。

(注1)『ミゼットプロレス伝説〜小さな巨人たち〜』(1992年放送)。一世を風靡しながら、メディアから黙殺され続けていた小人症プロレスラーのドキュメンタリー番組。

 制作会社の社員ディレクターである以上、まずは社内のプロデューサーに企画を認めさせないとダメなんです。いきなり放送局のプロデューサーに企画をもって行くことはありえないですから。でもプロデューサーの肩書きがあればできる。ならば辞めちゃおうかなって。辞めてプロデューサーって肩書きがある名刺を作ればいいわけですから。あるいはフリーランスのディレクターなら、自分の判断で企画を持ち込めますから。

 辞めるときはあんまり悩まなかったんじゃないかな。テレビ業界はフリーランスが多かったからね。会社に出入りしているディレクターもフリーなんていっぱいいましたから。元々帰属意識の薄い業界ですからね。だから会社を辞めても仕事とか収入とかはなんとかなるだろうと。

フリーで初のドキュメンタリー作品を制作
 

 で、フリーランスのプロデューサーとしてある制作会社と契約を交わして「小人プロレス」企画をフジテレビにもっていったら、意外にあっさり通っちゃってね。そりゃうれしかったですよ。自分がやりたいと思って立てた企画ですからね。でも演出は知り合いのディレクター(注2)に頼みました。自分にはディレクターの実績がほとんどないし、ただでさえハードルの高いこの企画を通すためには、実績のある人にお願いしたほうがいいと判断したんです。

(注2)後に『こどもの時間』で映画監督デビューする野中真理子氏。森さんが直接ディレクターを務めたこれ以降の作品群とは、被写体への迫り方、演出方法など、明らかに趣が違う

 もうひとつの大きな理由は、僕自身がディレクターをやる自信がなかったんです。会社で1年半ディレクターやって、自分はダメだ、ディレクターとしての才能がないと思ったから。それは今も思っています。僕にはディレクターとしての才能がない。美学がない。それは作品が証明しています。だからプロデューサーになったのも、意識のどこかでディレクターとしての自分に見切りをつけたんだと思う。

 ところが、このプロデューサーがもっと向いてないと分かった。プロデューサーって、お金の管理をしなきゃいけないし、スケジュールや人間関係にも気をつかわなきゃいけないとか、細かい作業が多いんだけど、これが最も僕の苦手な分野だった。だから一回やってダメ、もう二度とやらないって思いました(笑)。

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 僕の人生はとにかく消去法ですから。AがダメならB。BがダメならC。Cがダメならもう一回だけA……。今さら違う仕事探すのも面倒だし、もうディレクターでいいやって、ほとんど投げやりでしたね。ディレクターの仕事そのものは嫌いじゃなかったから、突出はしなくても、そこそこのものは作れるかなって思いもありましたし。実際にそれからは、ドキュメンタリー系と報道系の二つのジャンルで、細々と仕事をこなしました。『ニュースステーション』とか『ニュース23』とか、結構やりましたよ。まあそれなりの中堅ディレクターにはなれましたね。

再びディレクターに復帰した森さんに大きな転機が訪れる。1995年3月に起こった地下鉄サリン事件だ。森さんはフジテレビのワイドショー番組と契約して、オウム真理教(現アーレフ)関係の番組制作に携わるが、すぐに契約解除。しかしその後もただひとりオウム真理教を内部から撮影し続け、数々の衝撃的映像をものにする。しかし何か特別なことをしたわけではなく、周囲が止まっていただけだと、森さんはいう。
ドキュメンタリーという手法でオウムに迫る
 
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 1995年3月、地下鉄サリン事件が起こって、テレビ、新聞、雑誌など、メディアはオウム一色になりました。そのとき僕はフリーだったんですが、フジテレビのワイドショーのプロデューサーから番組のオウム専従ディレクターをやらないかって声をかけられて。あのころは人がいくらいても足りないっていう状態でしたからね。誰かが言っていたけれど、まさにメディアはオウムバブルでした。

 ワイドショーを引き受けたのは単純に生活のためですよ。オウム自体にはそんなに興味なかったですね。どっちかというと宗教って気持ち悪いなっていうのがあって。ただ、オウムやんないことにはメシが食えない。それだけですよ、最初は。とにかくオウムやらないと仕事になんねーって時代でしたから。

 

 でも1カ月後に契約解除されました。理由はロケに全く出なかったから。僕としてはまずオウムとは何か、どうしてこんな事件を起こしたのかというところを知りたかったんです。取材する前に被写体のことは可能な限り知っておきたいですからね。でもどんなに書籍や文献を読み漁っても、地下鉄にサリンを撒くというその理由がまったくわからない。そうこうしてるうちに契約解除。まあ当たり前かな。プロデューサーからは前代未聞だって言われました。そりゃそうだよね。ロケに一度も行かないんだから(笑)。

 で、またフリーに戻ったのだけど、1カ月勉強しましたからね。やっぱりオウムをちゃんと撮影したいという気持ちが湧いてきた。でもテレビは制約が強すぎる。ラジオ・ドキュメントを考えて、脱会した信者に接触したんです。何度か会いました。でも脱会信者ではやっぱり物足りない。ならば現役信者にアプローチしてみようと思って、当時のオウムの広報担当の荒木浩さんに「オウムのドキュメンタリー番組を作りたいから撮影させてくれないか」って手紙を書いたんです。1回目は返事がなかったから、もう1回出して。そしたら返事が来て、青山本部(当時)で話して、基本的にはその場でOKもらったんです。

 たぶん、他のマスコミからも同様のオファーは殺到しているだろうし、こんな個人のオファーを簡単には了承してもらえないだろうなと予想していたので、本当に驚きました。後でわかったのだけど、オウムの現役信者にドキュメンタリー取材の依頼をしたのは僕だけだったんです。

 でも僕にとっては当たり前のことなんです。だってドキュメンタリーをやってる僕がオウムを撮る。じゃあ被写体は残ってる信者たち。その生活を撮る。当たり前のことですよね。それをみんなやってないことに、後でびっくりした。

 だからよく、なぜあなただけがオウムの内側を撮れたのですか? って聞かれるんですが、ドキュメンタリーなのだから内側を撮ることは当たり前だし、何よりも僕は、ただ当たり前に取材を申し込んだだけなんですよね。つまりオウムが僕だけに撮影を許可したのではなく、依頼したのが僕だけだったということです。僕が特別だったのではなく、周囲が止まっていただけのことなんです。

絶対に譲れなかったこだわり
 

 でもオウムのドキュメンタリーを撮るにあたって、譲れないこだわりはありました。それはモザイクを使わないこと。オウム報道によって、モザイクという手法が一気に世間に蔓延したんです。その流れには、苛立ちに近いものを感じていました。

 モザイクって、記号になっちゃうんですよね。つまり、本来のモザイクの機能っていうのは、都合の悪いモノや公開してはいけないモノを隠すってことなんだけども、蔓延することで、「これは負の存在なんだ」という標識になってしまった。それに対しては強い違和感があった。なぜみんな、これほどためらいもなくモザイクを使うのだろうと。そのころ、テレビ的な作り方に対して自分の中で違和感がもう始まっていたんですけど、自分にとってその一番端的なもの、表象となるものがモザイクだったんじゃないかな。

 あと単純に、映像を汚したくないってのが大きかったですね。自分にはカット割りや絵づくりのセンスがないと思ってたから、せめて絵だけは汚したくないと。だから作品にはモザイクは一切ないし、テロップも最小限度にしました。モチベーションや理念はほとんどなかったけれど、今思えばそんなこだわりは確かにありましたね。

 でもオウム側を説得するのはけっこうたいへんだったんですよ。当然ほとんどの信者は素顔をさらしたくないですよね。でも僕にとって、そこは絶対引けないところだったので、荒木さんに何度も説明したんです。

1995年9月からオウムのドキュメンタリーを撮り始めた森さんは、1996年1月から業界大手の共同テレビジョンとディレクターとして契約。だがまたしても半年後に契約を打ち切られた。しかしその後も森さんは撮影を続行した。発表するあてもないまま。
『A』を撮り終えたら田舎に帰るつもりだった
 

 契約ディレクターになったのは経済的な安定を求めてのことです。バブル崩壊の波はテレビ業界にも押し寄せつつありましたから。

 でもTBS事件(注3)があって、当時契約していた制作会社の上層部から反オウムのジャーナリストを起用することや遺族のインタビューを入れることを要求されました。レポーターが出てくるドキュメンタリーって、僕は今までやったことないし、その段階では遺族のインタビューも必要ないと思ったので、当然即座に拒否しました。そしたら8月に契約を解除されてしまって。またフリーに戻っちゃった。でもまあそのときは、どこかのテレビ局がこの作品を買ってくれるだろうと思って撮影は継続しました。

(注3)坂本弁護士にインタビューしたTBSの番組スタッフが、番組放映前に収録テープをオウム幹部に見せた。これが、オウムによる坂本弁護士一家殺害事件の引き金になったといわれている。この件で、筑紫哲也氏は自身がメインキャスターを務める『ニュース23』で「TBSは死んだ」と発言。以降、メディアのオウムへの扱いは、それまでの一方的な糾弾に加えて、奇妙にねじれたものとなる。

 

 途中、数カ月分撮影したビデオをもってテレビ局に売り込みに行ったんだけど、どこも買ってくれなかった。もう全然ダメでした。一切映像すら見ない人もいたな。あんな悪の集団を被写体にするなんて許せないって。ほとんど門前払いです。映像を観てくれた人も、「おもしろいけどこれ、テレビでは無理だよ」って。そのとき僕も甘く見てたなって思いました。

 でも途中で、安岡卓治(注4)がプロデューサーとして加わってくれた。彼だけです。他の人からはすべて否定された。彼だけが意義ある仕事だって言ってくれた。僕にとっては大きかったですね。映画でやるというプランも安岡です。それからは二人三脚。僕自身もノーギャラだけど、もしかしたら安岡は借金したかもしれない。詳しくは知らないけど。聞いてないから。聞いちゃったら僕も一緒になって悩まなきゃいけないから。そこはプロデューサーとディレクターの間に線を引いて、聞かないことにしてる。

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 それまでは実はね、他にも撮影中のドキュメンタリーを途中でやめたりとか、僕はかなり我がままだったと思う。キャパシティが小さいんです。どうしても忍耐ができない。だからテレビのプロデューサーとは、あまりうまくいったことがない。安岡でやっと巡り会えた。信頼できるプロデューサーに。

(注4)安岡卓治(やすおか・たかはる)
1954年生まれ。大学在学中より映画製作に関わり、原一男監督『ゆきゆきて、神軍』の助監督を務める。テレビ・PRビデオ等を多数演出しながら、松井良彦、園子温、平野勝之ら個性派監督のインディペンデント映画をプロデュースする。森達也監督の共同製作者として、98年に『A』を、01年に続編『A2』をプロデュース。05年には最新のプロデュース作品、綿井健陽監督『Little Birds〜イラク 戦火の家族たち〜』を発表。また、日本映画学校でドキュメンタリー製作を指導し、小林貴裕監督『home』などの学生作品を劇場公開している。


 そうやってできたのがオウム真理教のドキュメンタリー映画『A』(注5)。自分たちでお金を集めて作った自主制作映画です。でもどこのテレビ局も買ってくれないし、映画にしたって配給もつかないし、上映してくれる映画館もないだろうと思ってたから、作品の上映も公民館かなんかで、友達や親戚を呼んでやろうかなと(笑)。それで僕のディレクター人生も終わりかなって思ってました。

 『A』みたいなものを作っちゃったら、テレビで他の仕事はできないだろうなって思ってましたから。それほど話題にならないまでも、業界の掟破りみたいになっちゃうだろうなって、その程度の自覚はありましたから。

 だから『A』を完成させたら田舎に帰って別の仕事を見つけてのんびり暮らそうかなって思ってたんです。でも……

(注5)『A』
1998年公開。広報部長の荒木浩氏に約1年間密着、約136時間にも及ぶ素材テープを編集して作ったオウム・ドキュメンタリー。オウム真理教の内側を撮ることによって、社会、メディアの矛盾をも浮き彫りにした問題作。プサン、ベルリン、香港、バンクーバー、ベイルートなどの国際映画祭に正式招待され、大きな反響と高い評価を得た。

 
「これで俺のドキュメンタリー人生も終わりか」──。そう思っていた森さんだったが、『A』は意外にも大きな反響を呼び、高い評価を得た。特に海外から。

次回は一躍世界の映画祭に正式招待されるドキュメンタリー監督となった森さんが悟った「ドキュメンタリーの真髄」について熱く語っていただきます。

 
2005.11.7リリース フリーターからの出発
2005.11.14リリース 『A』後は田舎に帰るつもりだった
NEW!2005.11.21リリース ドキュメンタリーは毒である
2005.11.28リリース 僕は「仕事」はしていない

プロフィール
 
森達也(もり・たつや)

1956年生まれ。広島県出身。立教大学卒業後演劇の世界へ。その後広告代理店、不動産会社、商社を経て、1989年テレビ番組制作会社へ転職。ドキュメンタリー番組制作に携わる。以降、フリーランス、契約ディレクターとして、『ミゼットプロレス伝説〜小さな巨人たち〜(1992年放送)』、『職業欄はエスパー』(1998年2月24日放送)、『1999年のよだかの星』(1999年10月2日放送)、『放送禁止歌〜歌っているのは誰?規制しているのは誰?〜』(1999年11月6日放送)などを制作。大きな反響を呼ぶ。

1998年にはオウム真理教のドキュメンタリー映画『A』を公開、ベルリン・プサン・香港・バンクーバーなど各国映画祭に出品し、海外でも高い評価を受ける。

最近は主に著述家として活動。『ご臨終メディア—質問しないマスコミと一人で考えない日本人』(集英社新書)、『ドキュメンタリーは嘘をつく』(草思社)、『下山ケース』(新潮社)など、著作多数。

講演会やトークイベントにも精力的に出演しているほか、、大学講師としても活躍中。

映像、書籍ともに、現代社会が抱える問題に真摯に迫り続ける、日本を代表するドキュメンタリスト。詳しくは「森達也公式ウェブサイト」を参照。

 
 
おすすめ!
 

『話の特集 2005 話の特集 創刊40周年記念 』(WAVE出版)
『ドキュメンタリーは
嘘をつく 』

(草思社)

ドキュメンタリーを撮るということ、マスメディアが抱える問題、現代日本の病理など、森達也流ドキュメンタリー論が炸裂する一冊。


『話の特集 2005 話の特集 創刊40周年記念 』(WAVE出版)
『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい 』
(昌文社)

小学校時代のつらい思い出、ドキュメンタリーを志した動機など、森さんの原点が分かるノンフィクション・エッセイ。


『「話の特集」と仲間たち 』(矢崎泰久/新潮社)
『いのちの食べ方』
(理論社)

「肉が食卓に並ぶまで」と、と場で働く人びとのことの描写を通じて、いかに差別がばかげたことか、生きるとはどういうことかを小・中学生でもわかるように優しく書かれた一冊。すべての子供、大人に読んでほしい。

 
 
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●河出書房新社
●魂の仕事人ブログ

 
photo 魂の言葉 僕の人生は消去法。でもそのとき残ったものに全力を注ぐ 僕の人生は消去法。でもそのとき残ったものに全力を注ぐ

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