キャリア&転職研究室|魂の仕事人|第4回ジャーナリスト 矢崎泰久さん-その2-危険な目にあっても仕事…

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魂の仕事人 魂の仕事人 第4回 其の二 photo
日本刀を持った右翼に襲撃されても 暴力団に拉致監禁、拷問されても 仕事への情熱は衰えなかった
矢崎さんは出版社を経営する父の体調がおもわしくなかったこともあり、家業を手伝うことになった。どうせやるなら、まともな雑誌を作りたい。しかも今までになかった新しいエンターテインメント総合誌を。『話の特集』が走り始めた。
『話の特集』元編集長、ジャーナリスト 矢崎泰久
 
新しい雑誌はまずはビジュアルが大事。白羽の矢が立ったのは当時新進気鋭のグラフィック・デザイナーとして活躍中の和田誠氏だった。和田氏の加入後、『話の特集』には才能あふれる若い作家、イラストレーター、漫画家、写真家などが続々集結。創刊に向けて、夜な夜な熱い論議が繰り広げられた。その様はまさに「クリエーター梁山泊」だった。
 
若き才能の梁山泊と化した『話の特集』
 
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 和田誠の第一印象は評判通り「生意気な若者」でした。でも僕は生意気なくらいでなければいいものはできないし、何より彼の才能にほれこんでいたので、『話の特集』のアートディレクターは彼しかいないと思っていました。

 必死で説得しましたが、彼の希望するギャラとこちらの予算があまりにもかけはなれていた。これはムリかと半ばあきらめかけていたところ「アートディレクションだけでなく、中身にも口を出していいならタダでいい」と連絡が入った。もちろん即答で了承。この申し出がなかったら『話の特集』は世に出なかったでしょうね。かくして編集長よりイバっているアートディレクターが誕生したわけです(笑)。

 

 非常にありがたい和田さんの申し出でしたけど、このときすでに実力派デザイナーとして引く手あまただった彼が、あえてこの実体がつかみにくくて儲けにもならない新雑誌の企画に、しかもノーギャラで乗ってきたか、最初はわかりませんでした。しかし挿し絵を文章の添え物でなくイラストレーションとして確立させたり、ウマいかヘタかではなくエンターテイメントとして成立しているか否かに注目して作家や写真家を選んだり、さらにパロディなど他の雑誌にない新しい企画やアイディアを持っていた彼ですから、それを形にしたいという気持ちが強かったんだと思います。

 創刊号の制作を前にアートディレクターの和田さんと決めたのが、新しい雑誌なんだから、なるべく新しい人を起用しようということでした。 (1)これまで原稿を書いたことが一度もない人、(2)全く違った分野で活躍している人に別なスタンスで書かせる、(3)徹底的にインタビューをして書きたいものを見つけ出してから執筆を依頼する。この3つのポイントで執筆者を選びました。

 その結果『話の特集』には数多くの若いユニークな才能が集まってきました。例を挙げると新進小説家の五木寛之と野坂昭如、ノンフィクション作家で作詞家の永六輔、ジャズ評論家の植草甚一、ルポライターの竹中労と小山内宏、アンダーグラウンドな演劇で注目されていた寺山修司と唐十郎、後に登場するSF作家の筒井康隆は小松左京からの紹介でした。ファッション写真で頭角を現し始めていた立木義浩や広告写真で実力を認められていた篠山紀信も加入。他にも予備軍として湯村輝彦、その他多くの書(描)き手がいましたね。また、ジャズピアニストやクラシックの声楽家などにも連載を頼みました。60年安保と70年安保の狭間でぐつぐつと行き場のない情熱をたぎらせていた若者が大勢いたんですよ。そんな時代にも恵まれてましたね。

 また多くの執筆者たちも今までにない表現媒体として期待してくれました。多くの多忙な作家が寄稿してくれたのは、既存の枠(雑誌)では不可能な試みをぶつけられる新雑誌だと認めてくれたからでしょう。僕はそんな人々の持つエネルギーにほれ込んでいたし「変なヤツ」に興味があった。その興味だけで執筆交渉していました。

一番の難問はやっぱりお金
 

 雑誌の基本的なコンセプトは「反権力、反権威、反体制」。体制におもねらないで、自分たちがこうであらねばならないと思うこと、いいと思うこと、おもしろいと思うことを雑誌という形で世の中に問うて行こうと思っていました。また、原稿や写真を掲載する際の基準は「スクエア」ではなく「ヒップ」なイメージで行こうと決めました。四面四角で、堅実そのもののイメージの「スクエア(四角)」より、丸いとかちょっと弾けてて突出していてかつ柔らかく、自由なイメージの「ヒップ」で行こうと。それまでの総合誌は一定のスタイルがあって予定調和的なスクエアなものばかりでしたから余計ね。

 創刊に際して一番大変だったのはお金の問題です。会社としてもあまりもうかっているとはいえない状況だったしね。そもそも父親の出版社から出すということで基本的に決済をもらわないとコトが進まなかった。それでも決済をもらうためには、とりあえず新雑誌を父親に認めてもらわなければならなかった。

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 だけど大正12年の創刊から文藝春秋に関わってきた父親には「雑誌とはこういうものでなければならない」という強固な理念があった。純文学作家にエッセイを書かせたり、イラストレーションやSF小説まで掲載する新しい雑誌を作ろうとしていた我々の考えは父親(社長)をはじめ取り次ぎ(雑誌や本の問屋)や書店にも通じなかった。父親や取次ぎを説得するのはしんどい作業でしたね。特に取次ぎが雑誌の体裁にうるさくてね。創刊直前に作ったテスト版もダメ出しを食らって作り直しました。でも引けないところは絶対に引かない。部数などは粘り強く交渉してほぼ思い通りの数を認めさせました。
和田氏は当初の宣言どおり、中身にも口を出しまくった。例えば、創刊号の準備段階で矢崎さんがすでに表紙用のイラストをサトウサンペイ氏に依頼していたが、和田さんはこれを断って横尾忠則氏に原稿を依頼。今でこそ有名な横尾氏だが、この頃はほとんど無名のアーティストだった。しかし和田さんはこれから注目される描き手と確信して当時から売れっ子だったサトウ氏を断ったのだ。こんなところにも「新しい雑誌は新しい人で」の思想がうかがえる。そして1965年12月20日、資金、内容、執筆陣、広告、部数、取次ぎなど数々の難問を乗り越え、ついに『話の特集』は産声を上げた。しかしそのスタートは無残なものであった……。
半分以上の返本。前途多難なスタート
 
 創刊前は、文字通り寝る間もないくらいの忙しさでした。もちろん博打や女遊びなんて全然できません。眠さとストレスでふらふらでしたが、作家からいい原稿が上がってくるとそんなものは吹っ飛ぶくらいうれしくてね。やはり雑誌作りの楽しさは自分の頭で考えた企画が、目に見える形になっていくその過程にありますから。そもそも好きでやってるんだから、誰にも文句はいえないしね(笑)。

 創刊号ができあがったときは、うれしさと不安がないまぜになったような気分でした。もちろん内容には自信はあるけど、果たして読者に受け入れられるかどうか……。結果を見れば不安の方が的中しました。7万部を刷ったんですが約5万5000部が売れ残ったんです。大型トラック2台分の返本の山を見たときは卒倒しそうでした。今考えれば元々の7万部という部数が無謀だったんですけどね(笑)。でもそのときはイケると思ってた。それどころか最初は10万部でいきたかったんだけど、父親に会社を潰す気かといわれてやむなく7万部に妥協したくらいなんですよ。10万刷ってたら恐ろしいことになってたね(笑)。

 やっぱり満足に宣伝ができなかったことが大きいかな。今、大手なら雑誌を創刊する際にはそれこそ億単位の金を懸けるけど、当時は今ほど宣伝のためのシステムもないし、宣伝費もなかった。そのお金があれば作家やカメラマンたちにギャラとしてあげたかったし。

 でも作家やカメラマンなど、クリエイターにはすこぶる評判がよかったんです。吉行淳之介さんなどは、創刊前に原稿を頼みに行ったときにはむげに断わられたのですが、創刊号を持っていったら、「これまでこんな雑誌はなかった。すばらしい。何でも協力する」と、びっくりしながらほめてくれて、自身のほかにも作家を紹介してくれたりしました。

人を動かすのは熱意しかない
 
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 執筆陣には創刊以降もこだわり続けました。僕たちは常に新しい書き手を探していたし、『話の特集』に書いてもらいたいという人には、直筆の手紙を何度も何度も書きました。そのときは必ず1行目に「原稿料はこれだけしか出せません」とはっきり書きました。「仕事を依頼するときに発注者側はギャラを伝えないし、受ける側も聞かない」のは出版界の悪しき慣習なんですが、仕事を発注する側として、まず最初に伝えたかったんですね。ギャラはかなり安かったのですが、小松左京さんなど、ここが気に入って受けてもらえた作家もけっこういたんです。

 あとはひたすらラブコールです。「あなたに絶対書いてもらいたい」「あなたが書いてくれたらいい雑誌になる」ということをひたすら訴える。そうすると初めは忙しくて書けないと断わった人でも、2度3度とお願いするうちに心を開いてくれ、OKしてくれるんです。やはり人を動かすのは熱意しかないんじゃないですかね。

 

 また、売れなくなった作家に敗者復活みたいなこともさせました。負けることは大切だと思うんです。これは僕が博打うちだからわかるんです。だから一度負けた奴とか不本意なことをやっている人間に注目するんです。エロ小説家の川上宗薫は本当は純文学を書きたかったと知ると「書きたいものを書いてください」と頼んだりしました。そうすると素晴らしいものを書いてくるんです。また売れている作家に違う分野のものを書いてもらう、ということもしました。三島由紀夫に辛口のエッセイを書いてくれ、と頼んだりもしました。

 マンガをアートとして扱ったのも好評でした。和田さんの企画に4カードというのがあって、ひとつのテーマに沿って4人の人気作家にカトゥーン(ひとコマ絵)を描いてもらうんです。手塚治虫や横山隆一などの才能ある描き手に頼むわけだから最初は断られるんです。なにせみんな多忙ですから。でも粘り強く通って承諾してもらう。満足できる4人がそろわないと連載を開始しないというくらい作家に対する情熱は徹底していました。手塚さんなんかは1枚というオーダーなのに5枚も6枚も描いてきてました。自分のが見劣りするとイヤだからという理由で。原稿も自分で届けに来てくれましたね。

号を重ねるたびに、『話の特集』の評価は上がり、読者数も徐々にではあるが、増えていった。また、若手に限らず新進気鋭の作家や写真家、イラストレーターから書(描)かせてほしいという申し出も殺到した。しかし売り上げにはなかなか結びつかず、創刊3号までで大幅な赤字が確定していた。そんなとき、ルポライター・竹中労氏から臨時増刊号としてビートルズの来日に合わせた密着レポート企画が持ち込まれた。うまくいけば会社を立て直せるが、売れなかったらさらに会社は傾く。もしかしたらそのままつぶれてしまうかもしれない。あまりのリスクの高さに反対の声も多かった。しかし、矢崎さんはこれに賭けた。会社の存亡を賭けた大博打だった。
ビートルズレポートでさらに傾く
 
 結果的に、竹中さんの提案を受け、一発逆転を狙って作った『ビートルズレポート』(注)は大失敗に終わりました。ビートルズの公演レビューと、公演直後から帰国するまでを追った速報ドキュメンタリーだったのですが、やはり人びとが関心を持っていたのは、ビートルズが来る前と滞在中の動向だけだったんですよね。公演が終わって帰っちゃったら、興味や関心も引いちゃったようで。あと、宣伝費に回す資金がなく、すぐに大勢の人に知ってもらうことがなかなかできなかったことも一因だと思います。

 内容的には我々作り手も自信をもっていたし、業界内の評価もとても高かったんです。三島由紀夫や植草甚一、吉行淳之介などが絶賛してくれましたから。しかしそれが評判になったころには書店から姿を消してしまったていたんですね。結局12万部刷って、5万部弱しか売れませんでした。博打に負けたわけです。その代償は高く、会社は倒産寸前に追い込まれました。

 注1 『ビートルズレポート』 三島由紀夫をして「家宝にする」とまで言わしめた。後に出版界で『幻の名著』と呼ばれる。1995年にWAVE出版から完全復刻され、その後も版を重ねている。 

ヤクザに拉致監禁。横浜港の倉庫で命の危機
 
 悪いことは重なるもので、倒産寸前まで追い込まれたときに「経営のプロ」と称されるある人物を紹介されたんですが、この人が実は詐欺師でね。会社の財産を根こそぎもっていかれたどころか、巨額の手形詐欺にあって会社は倒産してしまったんです。

 その手形は暴力団にも回ってたみたいで、ある日ヤクザとおぼしき屈強な男が会社に来たんだけど、返す金はないというと、そのまま車に乗せられてね。横浜港の倉庫に連れていかれて、殴る蹴るの拷問ですよ。痛さや苦しさより排泄と寒さがつらかった。なにしろ縛られたまま真冬の倉庫に一日監禁されたわけですから、小便もできないんです。仕方なく服の中でしましたけど、後でそこがさらに冷えるんですよね。

 確かに恐怖感はあったけど、命の危険までは感じませんでしたね。だって彼らの目的は金の回収だから。僕を殺したら金が返ってこなくなってしまう。まぁ僕自身もだまされたとはいえ、お金を借りて返していないのは事実だからこんなメに合うのも仕方ないよね。

 危険なメといえば、日本刀を持った右翼が「天皇陛下を冒涜する記事を載せた矢崎を斬る!」なんて編集部に怒鳴り込んできたこともありました。そのときは、歴代の天皇の名前を挙げ続けたら、「まいりました」といって帰っていきましたけどね(笑)。

 他にも「矢崎、月夜の晩ばかりじゃねえぞ」とか、いろいろ脅しを受けたりしましたが、それが原因で雑誌つくりをやめようと思ったことは一度もありません。逆に「おもしろい、もっとやってやろう」っていう気持ちが強くなるんです。「刺されたらむしろ名誉」だと思ってました。反権力、反権威、反体制を謳っている以上、暴力や脅しには負けてられないんですよ。この姿勢は今後も変えるつもりはありません。まぁ今まで殺されないですんでるんだからこの先も大丈夫でしょう(笑)。

 それよりも痛いのが、広告主に降りられてしまうこと。右翼は僕のところばかりじゃなく、スポンサーのところにも行くからね。会社の前に街宣車を乗り付けられて、一日中がなり倒されたら、そりゃ企業もたまったもんじゃないよね。そんなことがあると、やっぱり次の号から広告引き上げちゃう。これが何よりも痛かったね。

ついに限界、涙の休刊。でも悔いはなし
 
結局手形は不渡りになり、いったんは休刊を余儀なくされた『話の特集』。しかし、すぐに小松左京や寺山修二など数多くの執筆陣の尽力で新しいスポンサーがつき、復刊。いち雑誌の存続を賭けて数々のビッグネームが協力を惜しまないなどという構図は現在の出版界では想像もつかないだろう。そういう時代だったといえばそれまでだが、やはり『話の特集』がいかに魅力的な雑誌だったか、そして矢崎編集長の「人徳」がしのばれるエピソードである。その後も、企業や邱永漢などのスポンサードを受けながら発刊を続行したが、やはり限界は来た。創刊から30年後の1995年、ついに休刊。事実上の廃刊だった。
 
 休刊にはいくつかの原因が考えられるんですが、まずは部数の激減が挙げられます。今思うと最後の5年間くらいは内容的に鋭さを失ってしまっていた。既成の枠にとらわれない斬新な人選やテーマ設定で、驚きや面白さを読者に提供してきたのが『話の特集』でした。しかし全盛期に20万部という売れる雑誌となったことで、メジャー雑誌が『話の特集』の手法を真似するようになったんです。さらに作家もそれまでは発散できない「書きたい」エネルギーを『話の特集』だけに注いでいたんですが、売れると他の出版社から仕事が舞い込むようになるから、それをキッカケに離れていく人もいました。最初の10年くらいは純粋に書(描)きたい情熱だけで集ってくる若者も多かったんです。しかしそんな彼らは段々と減り、逆に「『話の特集』で書けば売れる作家になれる」といった売名目的としてのつまらない売り込みが増えました。
 

 もうひとつの大きな原因は、運転資金の流入がストップしたこと。バブル期、最盛期に上げた利益でバックナンバーや書籍用の倉庫など設備投資をするために銀行から多額の融資を受けていました。しかしバブルが弾けると銀行は一転、お金を貸してくれなくなりました。運転資金が入ってくれば、赤字でもなんとか会社を回していくことができるのですが、ストップするともうどうしようもない。手形で商売してますからね。それで、95年ころ、もう潮時だろうと思って会社を畳むことにしたんです。

 最初は21世紀になるまで続けよう、なんて和田さんと話していたんです。結果的に創刊40周年記念号も出せたし、僕の単行本(『話の特集』と仲間たち/新潮社)も出版できたので完全になくなった媒体ではないけれど、そのとき('95年)はお金はもちろん気力が充実しなければ出来ないことだから、残念だけどやめました。そのときできた借金は今でも残ってますよ。もうずいぶん減ったけど、まだ億は軽く越えてます。

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 でも全く後悔はしていません。好きなことを、好きなように、好きなだけやったから。むしろ得たものの方が大きいと思ってます。家族や周りの人間はいい迷惑だろうけどね(笑)。
 
かくして日本初のエンターテインメント総合誌『話の特集』は終わりを告げました。しかし小説、評論、演劇、映画、音楽、イラスト、写真などあらゆるカルチャーシーンをクロスオーバー的に取り上げ独自の視点で表現した『話の特集』は、出版界に元気と希望を与えました。その遺伝子はあまたの雑誌に継承され、今でも確実に生き続けています。
次回は仕事人、そして博打うちとしての矢崎さんの仕事観、人生観に迫ります。
 
2005.10.3 軍国少年からジャーナリストへ
2005.10.10リリース ヤクザに殺されかけても辞めなかった
NEW! 2005.10.17リリース 「仕事」とは「遊び」なり

プロフィール
 

矢崎 泰久
(やざき・やすひさ)
'33年(昭和8年)東京生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科に学び、日本経済新聞社に入社。その後内外タイムスに移り社会部記者としてキャリアを積む。'65年に父が経営する出版社、日本社から「話の特集」を創刊。以来、'95年の休刊まで編集長を務める。また映画、テレビ、舞台などのプロデューサーとしても数多く手腕をふるった。現在はフリーのジャーナリスト。『月刊現代』『週刊金曜日』などで連載企画をもつ。正しい歴史を学び、現在おこっている世の中の真実を見据える「学校ごっこ」講師でもある。

学校ごっこ
今年で4年目(8期/'05年9月〜'06年1月)の本当の歴史を学習する講座。「学校ごっこ」の特徴は"国家権力の視点ではなく、人権すなわち個々人の視点を大切に歴史を学ぶ"ということ。4つの講座のうち、矢崎さんは「歴史から考えるジャーナリズム」を担当。本当のジャーナリズムとは何か、その歴史を学び、語り継ぎ、その上に自分達で歴史を作っていく、という信条で開催。もちろん"遊びの精神を忘れない"ことも大切にしている。

 
 
おすすめ!
 

『話の特集 2005 話の特集 創刊40周年記念 』(WAVE出版)
『話の特集 2005
話の特集
創刊40周年記念 』

(WAVE出版)

創刊から矢崎さんが編集長を務める月刊総合誌の40周年記念号にして10年ぶりの「話の特集」になる。最近の商業主義偏重な世間の雑誌に憂いを感じた矢崎さんが一念発起して復刊させた。デザイン面で協力した和田誠氏をはじめ、創刊当時から関わっている執筆陣、カメラマン、イラストレーターを中心にそれぞれのテーマで様々な作品を寄せ、濃度の高い一冊になっている。篠山紀信、立木義浩が名を列ねる写真のページ、黒田征太郎のイラストレーション「PIKADON」、そして女優・冨士眞奈美の小説や指揮者・岩城宏之によるエッセイなど執筆者選びと意外性のある執筆テーマという"「話の特集」らしさ"は変わらない。立川談志、椎名誠、岸田今日子他、計14名が寄稿したジョーク・フェスティバルもバラエティ豊かで楽しく読める。


『「話の特集」と仲間たち 』(矢崎泰久/新潮社)
『「話の特集」と仲間たち 』
(矢崎泰久/新潮社)

'65年(昭和40年)に創刊した日本初のカルチャー総合誌「話の特集」。リベラルな思考を根底にエンターテイメントの本質を追求した。矢崎さんの下には、和田誠、横尾忠則、寺山修二、五木寛之など、今見返せばきら星のごとき才能が終結。面子の豪華さだけでなく、当時の雑誌的セオリーをひっくり返す斬新な誌面が人気となり、雑誌文化に大きな影響を与えた。そんな「話の特集」の黎明期に関わった人々とのエピソードに加え、新聞記者から雑誌編集長、さらに出版社社長まで兼任していく矢崎さんの雑誌人生的自伝でもある。

 
 
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photo 魂の言葉 好きなことをとことんやれたら、借金ができても悔いなし! 好きなことをとことんやれたら、借金ができても悔いなし!
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