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転職する人びと

難波哲平さん(仮名)43歳/研究職・前編

エリートコースを捨てて 42歳で選んだ退職・起業道は険しく日雇い派遣に…

受験、就職、昇進とこれまでエリートコースを順調に歩んできた難波哲平さん(仮名)は、42歳にして初めての挫折を味わう。若くして大企業の中枢部にまで登ったにも関わらず、自ら選んだ退職の道。ここから苦難の道が始まった。

プロフィール/神奈川県在住の43歳。地元の国立大学を卒業後、大手メーカーに入社。研究職→品質管理→生産管理と順調に上流行程へとステップアップし、42歳で会社の経営の中枢を担う事業企画部へ栄転となるも、半年で退職。恩師とともに起業するが半年で頓挫。借金を抱え、日雇い派遣で働きながらハローワークに通うも、なかなか内定通知は届かなかった。

 深夜2時。その倉庫内に一歩足を踏み入れたとたん、強烈な冷気が顔に突き刺さった。気温マイナス20度。吐く息さえ凍りそうになる。ついこの間まで働いていた、空調が完璧にコントロールされている快適なオフィスとはまるで別世界だ。

 身も心も凍てつく極寒の空間で難波哲平さん(仮名・42歳)はひたすら荷物を運んでいた。あまりの寒さにものの数分で指の感覚はなくなる。フォークリフトで走ると顔に激痛が走った。この前、同僚は肺炎になった。

 夜10時から翌朝の10時までの12時間労働。重労働だが時給はたった1000円の日雇い派遣。この賃金では愛する妻を満足に食べさせることすらままならない。ついこの間までの年収1000万円の快適な暮らしがウソのようだった。しかも妻のおなかの中には新しい命が宿っていた。

(早くなんとかしなければ……)

 かじかむ手をさすりながら黙々と単純作業を繰り返す難波さんの胸に去来するのは、後悔と焦りだけだった。

絵に描いたようなエリートコース
その先に待っていた落とし穴

 難波さんは地元の国立大学理学部を優秀な成績で卒業後、日本トップクラスの大手メーカーに就職。研究員として8年間活躍した後、品質管理部、生産管理部と順調に上流工程へ異動。そして就職から20年目の年に事業企画部へ配属となった。

 この事業企画部は主に新規事業の立ち上げや事業の統廃合など、会社の経営戦略に則った重要な業務を行う部署だった。ゆえに直属の上司は社長。しかもこの異動は社長直々のご指名だった。同時に年収は1000万を越えた。名実ともに評価されたのがうれしかった。

 絵に描いたような出世コース。42歳にして会社の中枢にまで食い込んだ。しかしこの早すぎる出世の先には、深い落とし穴が暗い口を空けて待っていた。

「私を引っ張り上げてくれた社長の恩に報いるためにも全力で頑張ろうと思いました」

 事業企画部に異動になってからというもの、難波さんは昼も夜もなく働いた。これまで誰もやろうとしなかった新しい事業にもチャレンジしようとした。しかし長い歴史をもつ大企業の中では容易なことではなかった。

 新しい事業を始めようとすると、必ず社内の管理職の抵抗にあった。彼らは決まってこう言った。「失敗したらどうするのかね?」と。

「常に新しい分野にチャレンジしていかなければ会社の未来はありません。もちろん、新しいチャレンジはリスクを伴います。しかし、できない理由を探すよりも、どうすればできるか、どうすればうまくいくかを考えるべきでしょう。彼らにはそういう思考がまるでなかった。定年まであと数年、それまでできるだけ波風を立てたくないという、会社の未来よりも保身しか頭にないような連中でしたから」

 それでも最初の内は強引に自分の意見を押し通していた。しかしこちらはひとり。いくら社長の賛同を得られても、大企業の中では事はそう簡単には進まなかった。何かをやろうとすれば必ず反対される。やりたいことがなかなかできないジレンマ。そんな毎日の中、仕事のモチベーションは少しずつ、しかし確実に削り取られていった。

「ネガティブ思考の人たちと毎日接していたら、自分までネガティブになっちゃうんですよ。知らないうちにね……」

 退職の二文字が時々脳裏を掠めるようになるまで、そう時間はかからなかった。それでも何とか踏みとどまっていたが、さらに追い討ちをかけるような仕打ちが待っていた。まさかの減給。しかも2ランクダウンの査定だった。

「一瞬、我が目を疑いましたね。苦しいながらも頑張っていたつもりだったのに。理由ですか? そんなもの人事が教えてくれるわけないじゃないですか。通達の紙切れ一枚もらっただけですよ。私も聞く気にすらならなかったですしね」

 もうどうでもいいや──。半ば自暴自棄になり、仕事意欲はかつてないほどになくなった。しかし自分には家族がいる。簡単に辞めることはできなかった。

恩師からの誘いで退職
起業を決意

 そんな悶々としていたある日、師匠と慕うある人から連絡を受けた。その人は、一緒に事業を立ち上げないかと言った。

「その事業は、“健康の源は食事から”という思想から、人々を健康にするための食事法を世の中に広めようというものでした。“これだ!”という思いでしたね」

 ちょうどメタボリックの増加や、食品の偽装事件などの頻発により、人々の食や健康への関心がかつてないほどに高まっている。だからこそビジネスとして成立するはずだ。そう確信した。

 もうひとつ、難波さんの心を強く突き動かすある思いがあった。

「そもそも自分が何をやりたいのか、自分の仕事の原動力は何かと考えたときに、何も浮かんでこなかったんです。大企業の責任あるポストに就き、同世代のサラリーマンよりは高い給料をもらってはいましたが、仕事の意義も、生きてる実感もまるでないことに気づいたんです。正直愕然としました」

 生まれてこの方、挫折とは無縁の人生だった。周りに勧められるまま地元でトップクラスの大学に現役で合格し、優秀な成績で卒業。労せず一流企業に就職が決まり、入社後は出世街道を驀進。研究の現場から管理部署へと順調に駒を進め、何百人といる同期を尻目に43歳の若さで直属の上司は社長という地位にまで登った。

 しかし、それらは本当に自分がやりたいことだったのか。否。そこにあるのは上昇志向だけだった。少しでも上の学校へ、上の会社へ、上の地位へ。周りの期待に応えようと頑張るとそれなりに結果が出た。結果が出ると達成感が得られるし、さらに周りの期待は高まるからさらに頑張る。その繰り返し。

 しかし上昇することに意味を見出せなくなった今、自分の中には何も残っていなかった。

 これまで自分の意思で自分の人生を歩んできたと思っていたが、実はそうではなかった。ならば本当に俺のやりことって何だろう。俺は何のために仕事をするんだろう──。改めて難波さんは自分に問いかけてみた。浮かび上がってきたのは「人のためになる仕事がやりたい」だった。

「仕事がうまくいかなかったからというのもあるかもしれませんが、当時、自分の仕事が果たして人のためになっているかどうか疑問に感じるようになっていたのです。ただ会社が大きくなるため、儲けることしか考えずに仕事をしてきたのではないかと」

 そんなとき尊敬する師からの誘い。しかも人びとの健康に寄与できるビジネス。心が動かないわけがなかった。

「ようやく自分のやりたい仕事ができると思い、うれしさで一杯でした。これからはこのビジネスに人生を懸けようと」

 自分を評価して引き上げてくれた社長には申し訳なかったが、もはや会社に未練はなかった。2006年9月、難波さんは辞表を提出した。

苦戦の連続で新ビジネスは断念
日雇い派遣に身をやつす

 恩師の住まいの関係で、新ビジネスの事務所は大阪に設立。それにともない、難波さんも東京から大阪に引越し、意気揚々と新ビジネスをスタートさせた。難波さんたちがまず目指していたのは、企業を相手にした食事法コンサルティング。社員の食生活や健康状態をチェックし、メタボリック症候群や高血圧症などの生活習慣病を改善するための食事法を指導することで、雇い主である企業からフィーを得ようというものだった。

 しかし、思惑通りに事は運ばなかった。毎日、営業に駆けずり回ったが、目先の利益に直結しないことに金を払う企業はなかった。社員が健康になればいずれ生産性も上がるというのに。

「どの企業も社員の健康には関心があって話だけは聞いてくれるのですが、いざ、契約となるとなかなか……。やはりそれで儲かるビジネスではないですからね。確かに始めからうまくいくとは思っていませんでしたが、最初の3カ月頑張ればどうにかなると思っていました。ところが、3カ月どころか半年経っても契約はゼロ。私の見通しは甘かったというほかないですね」

 半年が経つ頃には、資金が底をついた。退職金やこれまで貯めた金も起業のための初期費用や維持・運営費ですべて消えていた。それどころか借金までできていた。ちょうど会社を辞める時期に離婚と再婚が重なったのだ。

「私生活でもたいへんなことが重なり、借金で首が回らない状態に陥りました。起業したビジネスを軌道に乗せるどころか、食べていくことすら困難になったのです」

 さらにその頃、再婚した妻が妊娠。とにかく当座の生活費を稼がざるをえなくなった難波さんは、転職活動を開始すると同時に日雇い派遣に登録。派遣された先は冷凍倉庫だった。

 マイナス20度の極寒の倉庫の中で、荷物を運びながら難波さんは思った。

(こんなはずでは……。どこで間違ってしまったのだろう)

 このままでは妻と生まれてくる子供を養っていくことは到底できない。

 日雇い派遣と転職活動を始めて半年経っても、内定通知は届かなかった。

【後編】不採用の連続で自信喪失 突破口はコンサルタントとの出会いで開けた

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