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魂の仕事人 第30回 其の二
偶然がきっかけで声の道へ 将来の不安より今の気持ちで 人生を切り開く
声の仕事30年超。今でこそ仕事の依頼が途切れることはない超売れっ子ナレーターだが、声の道に入る前は普通のサラリーマンだった。今回は窪田氏がなぜ声の仕事を志し、いかにして名ナレーターと呼ばれるまでになったか、その軌跡を語っていただいた。  
ナレーター 窪田等
 

子供の頃はなりたいものはなかった

 

 子供の頃から声の仕事をやりたいと思っていたわけではありません。だけど、今考えると思い当たる節はいくつかあります。小学校の頃、朗読の時間に「窪田くんは声がはっきりしてていいね」と先生にほめられたのを思い出します。また、その頃「ディズニーランド」という番組があったのですが、そのエンドロールで「ナレーター:黒沢良(※)」と出てきたのを見たときに、初めて「へえ〜、顔を出さずに声だけで場面や状況を説明していくという仕事があるんだなあ」と思ったんです。今思えば、そのとき黒沢良さんにあこがれたんですよ。だけど、ナレーターになりたいとまでは思わなかった。すごく印象には残ってましたけどね。

 中学卒業後は工業高校に進学しました。子供の頃から飛行機が好きで、将来はその整備がやれればいいかなという漠然とした思いがあったからです。高校では放送委員会に入部しました。これがこの道に進む最初のきっかけになったのかなあ。だけど、それも自分がしゃべりたいというのではなくて、音を出したり調整したりするミキシングっていう裏方の作業の方をやりたいと思ったからなんですよね。

 きっかけは先輩による各クラブ紹介が行われたときに、司会をやっていた先輩がすごくいい声で、その人の声に聞きほれたんですよ。なんて素敵な声なんだろう、なんて素敵なしゃべり方をするんだろう、なんてわかりやすく話すんだろうと思った。それであの人の声と一緒にクラブ活動をしたいな、あの人の声を録音したり、音楽を乗せたりしたいなと思ったんです。ちょっと変わった動機なんですけどね(笑)。思えはそれが最初ですね。

 入部してしばらくミキシングをやっていたのですが、ある日先輩から「おまえもディスクジョッキーをやってみろ」と言われたんです。そのときはやりたくなかった。照れくさいし。でも先輩の命令には逆らえない。台本渡されて「やれ」と言われたから「はい」と。「いやですよ、僕は」と心の中で思いながらね(笑)。

 しゃべってはみたのですが、別段ほめられたというわけではなかったですね。ただ「はっきり聞こえるね」と言われただけでした。あこがれていた先輩のように語りたいなと思っていたのですが、やっぱり難しかったです。

※ 黒沢良——テレビやラジオで活躍しているベテラン声優・ナレーター。多数のアニメや洋画の吹き替えとして出演。中でもアメリカの俳優、ゲイリー・クーパーの吹き替えははまり役として有名。

最初の挫折から富士通へ
 

 高校3年生のときに、飛行機の整備士になりたいという思いは固まっていたので、日本航空の入社試験を受けました。ところが僕の人生ってダメ出しの人生で。身体検査の結果、腎臓から蛋白が検出されたんです。腎臓の病気の恐れがある、これは大変だと、すぐ入院させられたんです。それで日本航空はダメになった。しかも、入院中に全日空の応募期間も終わってしまった。僕の人生そんなもんかとかなり落ち込みましたね。学科や実技で落ちるならともかく、身体検査ですから。挑戦すらできないわけですからね。

 しかも、20日間入院したのですが、そのときの細胞検査などでは尿蛋白は検出されていたのですが、腎臓は悪くなかったんですよ。そのうちに「普通に生活していけば生きていけるでしょう」と言われて退院させられました。入った病院が悪かったのかどうかわからないですけどね(笑)。

 退院後、学校の先生から、「富士通って会社があるから受けてみたらどうだ?」と言われました。どんな会社かあまりよく分からなかったけれど、他にやりたいこともないし、このままでは行くところがないので受けたら受かっちゃって。それに入ってみたらすごくでかい会社で。やっぱり富士通ってすごく社員がいるわけですね。何千人レベルですから。すごいなあと。

 入社後、どういう職種を選びたいか聞かれました。設計、調整、製造の中で何をやりたいかと。そのとき調整がいいなあと思ったんです。図々しくも出張が多そうだなと思って(笑)。調整は日本全国各地、あるいは海外へ飛び回って無線装置の調整をする仕事なんです。

 それで希望を出したら通って調整ができる試験課に配属されました。でもまあ……やっぱりいろんなところへ行けて楽しいそうだなという甘い考えはいきなり吹き飛びましたね。

 配属が決まってほんの少し教育期間があっただけで、すぐに現場に出されたんですよ。まだ業務のことがよくわかっていないのに。山と山にアンテナ立てて、テレビ回線や電話回線を通すために、先輩とふたりで2箇所に別れて、それぞれの無線装置の調整作業をするわけです。もう不安でねえ。故障をしたらひとりで対処できるかと。「世間ってこういうものか、会社ってこういうものか」って衝撃を受けましたね。でも始めたばかりで逃げるわけにはいかないので「なんとかやらなきゃいけないよな」という思いでやってました。厳しいけどなんとかなるだろうと思いながらね。

 そしたら本当になんとかなるんですよね。まあ働くこと自体嫌いじゃないし。少しずつ仕事を覚えていって慣れていったら、おもしろく感じるようになってきました。

人生を変えた中吊り広告
 

 そうこうしているうちにマレーシアへの転勤話が持ち上がったんです。上司によるとマレーシアに行ったら最低でも3年間は帰ってこられないということでした。仕事は好きだけど、3年間は長いよな、どうしようかなと悩んでいたちょうどそのとき、たまたま通勤で乗っていた東横線の電車の中で「CMナレーター養成講座 受講生募集」という吊り広告がぽんと目に入ったんです。その瞬間、おもしろそうだなと思いました。高校時代に放送部でラジオ番組を作ってたことを思い出してね。

 それで帰ってすぐ応募したんです。締め切りギリギリだったらしんですけど運良く受講できることになったので、マレーシア転勤の話はちょっと待ってくださいと会社にお願いして、ナレーター養成講座に通い始めたんです。ほんとに偶然ですよ。そのとき21歳くらいでした。

 だから別に富士通で仕事をしていたときに、ナレーションをやりたいと思っていたわけではないんです。だけど今思えば、何かをやりたいと思っていたんでしょうね。会社の仕事だけじゃなくて何かをやりたいと。ナレーターじゃなくても、例えば絵を描くとかでもいいだろうしとかね。

読むことの楽しさに目覚める
 

 講座には会社帰りに週3回通っていました。上司に「習い事をしたいから」とお願いして定時で上がらせてもらって。

 ナレーションの勉強は予想通りおもしろかったですね。高校時代の放送部での下地があったので余計すっと入れたんだと思います。

 僕は高校まで山梨県で育って、就職を機に川崎に出てきたからまだ山梨なまりが抜けていなかったんですね。だから最初は読むたびに先生に注意されるわけですよ。みんなの前でね。先生の前でしゃべれなくなっちゃったりとかもしました。でもそのままじゃ悔しいじゃないですか。だからアクセント辞典と首っ引きで頑張ったら徐々に克服できたんです。

 それから一番大きかったのが、やっぱり原稿を読むことの心地よさを教わったことですね。言葉だけで表現するって非常に楽しいことだなって、やればやるほど思うようになったんです。

初めてのナレーション仕事
 

 ナレーション養成講座は1年間のカリキュラムだったのですが、1年が経つころになるとCMのナレーションの仕事がポツポツ入ってくるようになりました。その養成講座に入ると自動的に講座を主催する事務所にナレーターとして所属するようになっていたんです。

 初めてのCMナレーションの仕事のことはいまだに一字一句はっきり覚えていますよ。第一生命のCMで、「この放送をお聞きになったら第一生命のビッグライフにお入りください」という文言でした。これがテレビから流れたときは恥ずかしかったなぁ。「俺こんな声じゃない」って思いました。自分の声に慣れていなかったから。自分でしゃべっているときに聞く声と録音した声は違いますからね。本当の自分の声は世界で自分しか知らないから。うれしいじゃなくて恥ずかしかったですよ。

 その後も時々仕事の依頼が来るようになったのですが、サラリーマンだから、なかなか思うように請けられないんですよね。事務所のマネージャーから直接会社に電話がかかってきていたのですが「明日○○の仕事があるんだけどどう?」「え? 明日ですか? 会社休めるかどうか……」「だったらいいのよ〜」という感じで。

 まあそういうもんだよなあと。やっぱりナレーションの仕事をやるためには会社を辞めなきゃいけないか……と思いました。勉強し始めてから間もなく、ナレーターとして生きていければいいなあと思い始めていたのですが、1年間勉強するうちにその気持ちはむくむくと大きくなっていき、ナレーションの仕事が来るようになって、富士通の仕事よりも「ナレーションを仕事にしてやっていきたいな」という思いの方が強くなりました。

川の深さがわかってしまったら
飛び越えられない
 

 だけど当時、仕事の依頼が来ていたといってもたまになので、とてもそれで生活していけるレベルではありません。この道を選んでもこの先どうなるかなんて分からないし、将来の保障なんてまるでないですしね。一方、富士通の仕事は順調でした。だからいわゆるサラリーマンの安定した生活か、不安定だけどやりたい方を選ぶか迷いました。

 たとえていうなら、目の前に大きな川が流れている。自分の本当にやりたいことはこの川の向こう岸にあるような気がする。頑張れば越えられそうな気がするけど、この川の深さは分からない。もし跳び越えようとして落ちて、すごく深かったらそのまま沈んでしまうかもしれない。

 だけどいつまでも考えていてもしょうがない。そこで川の深さを測って深いとわかっちゃうと、怖くてもう跳び越えられない。だから川の深さを測らずに行っちゃえ。ダメだったらダメでいいじゃないか。まだ若いんだから、やり直せばいいじゃないか。だからとりあえずやりたい方をやってみようと。

 それで「もういいや、辞めちまえ」と会社に辞表を出したわけです。もしこのとき「ナレーターでは食っていけないかもしれない」とか「この川の深さはどうなのかな」と考えたら、「やっぱりやめておこう」「そのまま富士通の社員でいよう」と思ったかもしれない。結局、富士通での仕事よりもナレーションの方がおもしろくてやりたいと思ったってことなんでしょうね。ここから僕の無鉄砲人生が始まったわけですよ。

 会社に辞表を出したその日に、会社から親に「おたくの息子さん、会社を辞めるって言っていますがご存知ですか?」って連絡が行ったらしいんですよね。親は僕には何も言いませんでしたけどね。

運命を変えた出会い
 

「辞めちまえ!」って会社を辞めたけれども、やっぱりナレーターではとても生活していけない。当時川崎で一人暮らしをしていたのですが、今さら親のすねをかじるわけにもいかない。そこでアルバイトを始めました。少しでも放送業界に近い方がいいので、高校時代の友達の友達に、TBSサービスという会社を紹介してもらったんです。その友達はADを目指してTBSサービスでバイトしていたんですが、いよいよ行き先が決まったから、その後釜として僕が入れたというわけです。仕事は印刷部門で台本運びとかをやってました。

 ナレーションの方は、ポツポツくる仕事をこなしてはいましたが、当時の年収は50万円くらいでした。そんなとき、所属事務所の人から「CMナレーターの特訓講座があるけど受けてみない?」と言われました。やろうかな、どうしようかなと悩んだのですが、このままでもなかなか先が見えないのでCMナレーターの特訓コースを受けることにしました。

 この特訓コースを受講したことが結果的に大正解でした。僕が今あるのはその人のおかげだといえる恩師に出会えたんです。

 ある日バイト先で仕事をしていたら、たまたま大手広告代理店の電通の社員が印刷を頼みに来ました。その人は電通でCMを作ってる人で、受講を申し込んだCM特訓コースの講師だったんです。全くの偶然です。その人に「あれ? どこかで会ったか?」と言われたので「今度先生の授業を受けることになった窪田です」と。それで印象に残ったのかもしれないけど、その後その講師と親しくできた。CMの特訓コースは3カ月で終了したのですが、終了後、その講師がCMナレーションの仕事をくれるようになったんですよ。そうすると事務所の方も「窪田は仕事ができるのか」と思って、他の仕事も回してくれるようになって、徐々に仕事が増えていったんです。

 だからやっぱり「出会い」ですよね。電通の講師との出会いが大きいのですが、そもそもその講師と仲良くなるきっかけとなったアルバイト先に入れたのだって、高校時代の友達が作ってくれた「出会い」ですからね。

 TBSサービスでのアルバイトはその後も続けていたのですが、1年後に辞めました。ナレーションの仕事が増えたからではなく、辞めざるを得なくなったんです。当初、バイトするにあたって、1週間のうち何日かはナレーションの仕事が入ったら3時間ほどバイトを抜けさせてもらうという条件でやっていたのですが、1年経ったころに「毒蝮三太夫さんのラジオカーの手伝いをやってくれないか」と言われたんです。「ラジオカー」は毎日やらなければならない仕事だったので、それを引き受けちゃうと、時折入るナレーションの仕事ができなくなってしまう。だからそのバイトは辞めました。上司の命令をバイトの分際で断るわけだから辞めるしかなかった。辞めてどうなるかなんて、わからなかったけどね。

「この先どうなるか」ではなく
「何が一番やりたいのか」
 

 思えば僕の人生、分かれ道の連続だったような気がします。みなさんも仕事でもプライベートでも、必ず「どっちの道を選ぶか」という岐路に立たされることがありますよね。

 僕の場合もまず最初に会社から「マレーシアに転勤しないか」と言われたとき、ナレーションの勉強がしたいと思ったから、ナレーション養成講座に通う方を選びました。会社を辞めようかどうしようかと思ったときも、安定した会社での仕事よりも、不安定だけどよりやりたい仕事であるナレーションで生きる道を選びました。 アルバイトを辞めたときも、「一番やりたいこと」がわかっていたから、「ナレーションをやるためには、ラジオカーをやっていたらできないじゃないか。だからバイトを辞めよう」という選択をしたんです。この先どうなるかなんてわからなかったけど。

 そうやって、岐路に立たされて、辞めるか続けるか選択を迫られたとき、やっぱり「これで食って生きたい」と思うことが明確にわかっていたから、先が分からなくても飛びこんでいけたんでしょうね。結局、「その先どうなるか」ではなくて、「自分が今一番やりたいことは何だ」ということですよ。迷ったときは一番やりたいことをメインに考えて、決めてきたんですよね。

アルバイトを辞め、いよいよナレーション1本で勝負していくと心に決めた。このとき23歳。覚悟を決めたら状況は好転していった。

何が何でもやるしかない
 

 あるとき、同じ事務所にすごく声のいい人がいて、その人がCMのナレーションをやったことがあったんだけど、どうもアガっちゃってうまくいかない。それで「窪田はアガらないからいいだろう」と僕にお鉢が回ってきました。僕はアガっても表に出ないらしくOKをもらい、その仕事で実績ができて、徐々にCMナレーションの仕事が来るようになりました。電通の恩師のおかげでもあるんですけどね。最初は週に1〜2本、それが3本、4本と徐々に増えてきて。それでバイトをしなくても、ナレーション1本でなんとか食えるようになりました。やっとプロになったなあと思ったのは24、5歳のころですね。

 もちろんそんなに贅沢はできないけど、まあなんとか結婚できるかなと思って24歳で結婚しました。結婚が早かったのも、なんとなく不安だったから支えてくれる人がそばにほしいといった気持ちがあったからかもしれないですね。愚痴をこぼせる人がほしいとかね。「今週仕事がないよ」と愚痴をこぼしてもカミさんに「なんとかなるでしょ」と言われるとふっと安心できましたね。

 でも基本的に常に不安は感じていましたよ。ある程度仕事が来るようになってもフリーランスである以上、必ず不安はありますよね。「この先いつまでこの仕事を続けることができるのだろうか」という不安。その不安に打ち勝つ気持ちが「絶対に」必要ですよね。それは「何が何でもやるしかない」という強い決意です。

 結婚して2年後に子供が生まれたのですが、子供が生まれると大抵の親は「よし、これからもっと頑張るぞ!」と思うじゃないですか。でも僕はそうじゃなかった。「この子が小学校に上がるまで今の仕事をやっていられるだろうか?」という不安がまずあった。だから「頑張るぞ」じゃなくて「なんとしてもやるしかない」という思いですよ。そもそも「頑張るぞ」といったって、フリーランスの仕事は需要と供給のバランスの上に成り立っているわけだから、依頼がなければ仕事はできないわけです。物を売るのとは違うから。営業マンだったらこちらから売り込む、数打ちゃ当たるというのもあるかもしれないけれど、こちらは常に「待ち」の状態ですからね。

 僕はお酒が飲めないし、営業ができないんですよ。マネージャーにも「酒の席でいろんな人とコミュニケーションを取れれば仕事につながるかもしれないけど、僕にはそれができない」とはっきり伝えてあります。これが自分の中でネックになっているというのも十分承知しています。

来た仕事は断らず、全力でやる
 

 じゃあどうするか。まず来た仕事は断らない。そして受けた仕事は全力でやろうと心に決めました。ナレーターさんの中には「こんな仕事、俺にはできないよ」とか「なんでこんなことやらせるんだ」という人もいるかもしれないけれど、僕は来た仕事を一生懸命やることによって次につなげよう、それしか営業の方法はないだろうと思ったんです。青っちょろい考えかもしれないけどね。むしろ苦手な営業をしたら返って墓穴を掘ったり、失敗するだろうとも思いました。逆に相手に気を遣わせちゃったりしてね。だから苦手なことをやるよりも、自分にできることで営業していこうと。

 そのとき一番大事にしていたのは「お客さんに喜ばれること」でした。ひとつの仕事をやるとクライアントは「あの人、一生懸命やってくれたからまた頼んでみようか」と思うはずだ。そうやって徐々に仕事を増やしていくしかないと。ナレーションがうまいかへたかは自分ではよく分からなかったから。だから思いとしてはそれしかないだろうなあと。

 お客さんに喜ばれたい、いいものができたと言われたい。それしかないですもんね。自分にできるのはね。この思いでずっとやってきたわけです。もちろん今も変わっていません。

 

来た仕事は断らず、全力でこなしていくうちに仕事はどんどん増え、いよいよ30代半ばでテレビ番組のナレーションを本格的に行うようになった。

次回はナレーターとして一皮向けた仕事、そして代表作のひとつである番組にかけるこだわりについて語っていただきます。乞う、ご期待!


 
第1回 2008年3月31日リリース 1カ月の収録50本超 日本屈指の人気ナレーター
第2回 2008年4月7日リリース 運命を変えた一枚の広告 声の仕事を志す
第3回 2008年4月14日リリース こだわりの情熱大陸 100点満点の仕事は20代
第4回 2008年4月21日リリース 涙が出るほどうれしかった 聴視者からの手紙
第5回 2008年4月28日リリース 辞めようと思ったほど つらかった競合事件
第6回 2008年5月5日リリース ナレーター道を極めたい 人から必要とされていたい

プロフィール

くぼた・ひとし

1951年、山梨県生まれ。57歳。ナレーター(シグマ・セブン所属)。高校卒業後、大手情報通信企業の技術職を経て、ナレーターへ転身。以降、テレビ、ラジオなどの各媒体でドキュメンタリー、情報バラエティ、CMなどあらゆるジャンルのナレーションをこなす。明確でわかりやすい口調、過剰に主張しすぎない語り口、抜群の安定感などのナレーションに定評がある。現在日本で最も仕事の依頼が多いと言われているナレーター。

代表作に「情熱大陸」(毎日放送:毎週日曜日23:00〜23:30)「F1グランプリ総集編」(フジテレビ)などがある。

【関連リンク】
●株式会社シグマ・セブン
●窪田等氏のプロフィール

 
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窪田氏のナレーターとしての代表作のひとつ。2008年で10周年を迎えた。長期間に及ぶ密着取材でひとりの人物の核心に迫る上質なドキュメンタリー番組。登場するのはさまざまな業界で情熱をもって仕事に取り組み、挫折を超えて挑戦し続ける人びとなので、「魂の仕事人」とかぶることあり(伊勢崎賢治氏、野田義治氏など)。見終わったあと、働く勇気が沸いてくる番組。登場人物の真摯な生き様が、窪田氏の重厚かつ品格のあるナレーションとマッチして極上の雰囲気をかもし出す。

 
 
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