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魂の仕事人 第28回 其の二
本当にやりたいこととは──とことんまで自分と向き合い スポーツ医学の道へ
大学卒業後、都内の名門大学病院に就職し、医師として職業人生のスタートを切った辻氏。2年間の研修医期間を終えた後は、さらに別の病院での修行が始まった。しかしそこで改めて自分自身と向き合うことを余儀なくされる。それは小さいが、後の人生の方向性を決定づける最初のきっかけだった。  
スポーツドクター・エミネクロス代表 辻 秀一
 
監督を務める「エクセレンス」の皆さんと(写真提供:辻 秀一氏)

喜びもつかの間
予想以上の激務の日々

 

 クジで決まった出張先の病院は希望条件を満たせていてラッキーと思っていたのですが、実際に勤務してみるとラッキーどころかかなりたいへんな病院でした。完全当直制で、当直医になったら悲惨なんです。夜中だろうが明け方だろうが、病院に来る患者はすべて診なきゃいけないから。とにかく出張期間の2年間は本当にむちゃくちゃ忙しい毎日でしたね。

 今でも覚えてますけど、当直初日に急患は来るし、病棟は末期がん患者が一晩で4人ほど亡くなるしで大変だったんです。とんでもない病院に来ちゃったなと思いましたね。それ以降も土日やクリスマスや年末年始などの当直にさせられました。当時27、8歳だったので相当キツかったですね。

 でも当直も経験していくうちに段々慣れたり、実力もついてきて、それなりにライフスタイルも充実させながら勤務していたんですが、出張の2年間が終わっていよいよ慶應病院の内科に戻って念願のリウマチの研究に取り組むぞという4カ月くらい前だったですかね、いつも以上に夜中に何回も起こされた当直の日があって。しかも重篤な急患でもなくて単なるカゼ程度の患者やホームレスが運ばれてきたりとかしてね。

 それでボロボロになって翌朝、医局で「昨日って最悪でさ」って同僚の医師などに話していたのですが、そう言っている自分にふと気づいて、愕然としたわけです。

医師としての自分に疑問
 

 そのとき、2つのことが頭に浮かびました。まずひとつは、そもそも医者って奉仕の心で働かなきゃならない職業のはずだろうと。そもそも仕事は奉仕であるという考え方は、高校時代に培われたものです。僕の通ってた高校はミッション系だったので、「人間は奉仕して生きるべきだ」という空気が、学校生活の中で自然に流れているわけですよ。そんな校風だったので、キリスト教そのものには全然興味なかったんですが、その奉仕の生き方、考え方になんとなく影響を受けたんでしょうね。奉仕することの大切さをおぼえ、その表現が医療だなというのは、医師を志して以来ずっと根強く僕の中に残ってました。

 だけど医師になった今、それが実現できておらず、ただ慌しく生活していることに疑問をもったんです。そもそも俺は人のために奉仕するということを大事にしたいから、医者になったんじゃなかったのかと。それなのに疲れたとか最悪とか文句を言ってていいのかと思ったわけです。

 その結果、「俺は医者という職業が本当に好きなのだろうか」という疑問が湧いてきたんです。そもそも24時間働く仕事だとすると、好きじゃないとできない。本当に好きだったら文句なんて出ないはずだ。確かに今は一生懸命やってるけど、自己犠牲精神で「人のため」とか言ってるんじゃないかな、だから夜中に急患で何度も起こされて文句を言ってるんじゃないかなと。

 だけどよくよく考えると、「人のため」って思う自己犠牲精神は、本当の「人のため」じゃないと思ったんですね。自分自身が心底好きなことをやることが、本当に人のためになっていくんじゃないかと。だから人のためを思うなら、自分の気持ちをもっと大事にしなきゃダメで、だから俺は俺の本当に好きなことをやらなきゃならないと思ったんです。

本当に好きなことって何だろう
 

 そこで「俺の本当に好きなことって何だろう」と考えました。子供の頃からこれまでの人生を振り返る中で、「小学校の頃の淡い夢はオリンピックだったな。そんなこと全く忘れてるよな」とか、「大学受験だってバスケだけで選んでいるじゃないか」とか、いろんなこと思い出しました。さらに深く自分の心を掘り下げていったところ、「人が治りたいという気持ちより、スポーツでうまくなりたいとか勝ちたいという気持ちの方がわかる気がする」と思ったんです。

 当時、結婚もしていたので、毎日のように家内に「俺の好きなことって何なのか、今、疑問をもってるんだ」などと話したりもしていたので、「スポーツ」がひとつのキーワードとしておぼろげながら出てきたときに、そう妻に話すと「あなたは医者なんだから、勝ちたいって気持ちの方が分かるっていっても、そんな患者さんいないでしょ」って言われて。当然ですよね(笑)。そんなこんなで1〜2カ月ずっと悩んでましたね。「スポーツ」とか「好きなこと」とか「勝ちたい」という言葉が頭の中でグルグル回っていました。

考えに考え抜いた結果、おぼろげながらキーワードが浮かんできたものの、まだ形になるまでには至らなかった。そんなとき、まるで辻氏の苦悩を見透かしたかのように1本の電話がかかってきた。この電話をきっかけに、辻氏の運命は大きく変わっていく。

運命を変えた1本の電話
 

 悩んでいたある日、北海道大学医学部OBの大先輩から電話がかかってきたんです。その人は東大の整形外科の医師にして、バスケットボール協会の中で医科学委員を務め、スポーツドクターとして関わっていたり、チームと一緒にオリンピックに行ったりと、スポーツドクターとしてとても活躍していた先生なんですね。

 そんな先生からの電話だから最初は何の用かな、OB会の誘いかなと思ったら、「辻くん、今どうしてるの? バスケに関わってる?」って言われて。当時は仕事が忙しくて、バスケはたまに思い出したようにプレイする程度だったので「いやあ、今出張先の病院で内科医として働いているんですが、忙しいからバスケには全然関われてないんですよ。そろそろ慶應病院のリウマチ内科に帰ろうと思っているところなんですけどね」って答えました。電話がかかってきたのはちょうど、慶應のリウマチ内科に帰って研究室に入るという届けを出したものの、本当にそれでいいのかなって悶々と悩んでいたころでしたから。

 そしたらその先生は「バスケットボール協会の医科学研究部が、内科系のドクターでバスケが死ぬほど好きなやつを探してるんだけど、辻くんどうかね?」って言ったんですよ! えぇ!?ってものすごくびっくりしましてね。まずバスケットボール協会に医科学研究部っていうのがあることすら知らなかったし、バスケと医学がこんなふうに結びつくなんてことも全く予測していなかった。また内科医がスポーツ医学の領域に関われるなんて思っていませんでした。けが人を診るのは外科医のスポーツドクターだけだと思っていましたから。

バスケ協会のメディカルドクターに
 

 僕が北大を卒業して慶應の内科に入局した年に、バレーボールの日本リーグで当時ダイエーのチームに所属していたハイマン選手が試合中に突然死してるんですよ。この一件でスポーツ選手は必ずしも健康とはいえないから、スポーツ中の選手の突然死をなんとかして防がなきゃいけないとか、選手の健康管理をちゃんとしなきゃいけないという機運が、バレーボールを中心にスポーツ界で高まっていったんですね。

 だけど、そういう問題を専門に扱うのは整形外科じゃなくて内科医なんです。だからやっぱりバスケットボール協会の医科学研究部でも大会救護の体制を整えるために、選手のメディカルチェックができる内科医を入れなきゃいけないということになったらしいんですよ。どうせ入れるのならバスケが好きな内科医がベストだとなったときに、僕を思い出してくれたと。後輩で死ぬほどバスケ好きなヤツがいてどうやら内科医になったらしいからって、探して電話してくれたんです。

 それで「今度、バスケ協会の医科学研究部の会議があるから出て」って言われて。ちょうど揺らいだり悩んだりしてた時期だったし、興味もあったから出席したんですよ。そしたらやっぱりバスケが好きだし、もっとスポーツと医学との関わり方に興味が沸いてきたから、バスケ協会のメディカルドクターを務めることにしたんです。

 それからバスケ日本代表チームに帯同して、ユニバーシアードやアジア大会へ行ったりするようになりました。協会のドクターとして、全日本の選手たちのメディカルチェックをしながらほんとに夢のようだと思っていました。その選手たちは、僕がバスケ少年だった頃の夢のまた夢のあこがれの存在したからね。ちなみにその頃知り合ったジャパンの選手は、今30代後半になってて、協会に入ったりいろんなチームのコーチになったりしてるんですが、今だに付き合ってるんです。だから協会のメディカルドクターをやることでネットワークがすごく広がって、それが今に生きてるんですよね。

 だけど、まだスポーツ+医療で生きていこうというところまではいかず、予定通り慶應病院のリウマチ内科に帰ってリウマチ研究室に入ったんです。協会のドクターは本職にはせず、リウマチの研究をやりつつ、自分のQOLを高めるために趣味としてやろうと。リウマチ研究の仕事が終わった後や、休日を利用して協会の仕事をしていました。電話をかけてきてくれた先生のおかげでバスケットボール協会とのつながりができたのはすごく大きかったですね。

NECのラグビー部のチームドクターも務めている(写真提供:辻 秀一氏)
スポーツ医学研究センターとの出会い
 

 このころ、もう一つ大きな転機となった出会いがありました。当時50歳手前くらいの元々慶應病院の循環器に勤めていたかなり偉い先生で、慶應病院を辞めて日吉キャンパスの中に、「スポーツ医学研究センター」というのをつくった人がいるというのを聞いたんですね。そのとき、大学を辞めてまでスポーツ+医学という、僕が今一番悩んでいるこの2つのテーマに取り組んでいる先生にぜひとも会ってみたいと思ったんです。

 でも僕の専門は循環器系じゃなかったのでその先生のことをほとんど知りませんでした。そこで出張先の病院の循環器科の先生に、「今、スポーツと医学が僕の中で混在してて、リウマチ内科に帰ると決めたものの困惑してるんです。だからこの先生に会って話を聞いてみたいので紹介してくれませんか」と頼んだら、「じゃあぜひ会いに行きなさい」と紹介してもらって、会いに行ったんですよ。

 そしたらそのスポーツ医学の先生は「辻くん、これからは内科のスポーツ医学の時代なんだよ」って言ったんです。ひとつは、当時は成人病と言ってましたけど、生活習慣病、今で言うメタボリック症候群の問題を解決する、つまり予防医学、健康増進の医学の担い手は、内科のスポーツ医学なんだよと言ったんですよ。こういうライフスタイルをマネージメントするスポーツ医学はアメリカで研究されていて、この分野で日本は30年も遅れているんだと。

 もうひとつインパクトが大きかったのが、ヨーロッパのサッカーチームのチームドクターはほとんど内科医だという話でした。整形外科医じゃないんですかって聞いたら、そうじゃないって。サッカー中にケガをした選手は優秀なスポーツドクターがいる病院に運べばいいと。実際に試合をする現場で役に立つのは選手のコンディションを診られる内科のスポーツドクターなんだって言ったんですよ。

 この先生のお話は僕にとってかなり衝撃的でした。慶應に帰ってリウマチの研究をしながら、バスケ協会のメディカルドクターの仕事もし始めた矢先でしたからね。これはおもしろいな、こういう新しい生き方もあるんだなって僕の中にインプットされたんです。

 それでその先生に、「週に半日くらいになるかもしれませんが、こちらに勉強しに来てもいいでしょうか」って聞いたら、「自由にしていいよ」って言ってくれたんで、リウマチ研究室での仕事やバスケットボール協会でのメディカルドクターの仕事の合間を縫って、日吉のスポーツ医学研究センターに通い始めたんです。

 だけどこの時点でもまだ、スポーツ医学を一生の仕事としてやりたいとは思っていませんでした。

スポーツと医学が結びつきそうな気配はあったが、まだ人生を懸けて取り組む仕事としては考えられなかった。そこまでの明確なビジョンがもてなかったからだ。しかし、そんな迷いを吹き飛ばす事件の発生により、辻氏のキャリアの路線は急速にスポーツ医学の方へと傾いていった。

 
エミネクロススポーツワールドの皆さんと(写真提供:辻秀一氏)
「教授選」でスポーツ医学の道へ
 

 入ってからわかったんですけど、慶應大学病院の内科のリウマチ研究室にいる医師って、内科でトップクラスのむちゃくちゃ優秀な人ばかりで、世の中勉強こそすべてだ、という人の集団だったんです。もちろん「今日、スポーツのことで話があるんですが」などと言えるような雰囲気では全然なかったんですよ。尊敬している先生もいたんですけど、とにかく勉強あるのみ、暇があったら勉強してください、みたいな研究室だったんです。

 そのリウマチ研のトップに君臨していた教授はリウマチの世界でものすごく有名だったんですが、その教授が僕がリウマチ研に入って1年後に定年で退官することになったんです。医局の教授が辞めるということは、新しいボスを決めるための教授選が行われるということで、それが1年後に行われるということになったんです。

 教授選には助教授や講師が立候補します。リウマチ内科は、リウマチが主流で、あとは血液内科と感染症内科がそろった大きな研究室でした。各科にも派閥があって、リウマチ内科に4つ、血液内科に2つ、感染症内科に1つあって、全部で7派閥がありました。僕はその中のリウマチ内科の中の、ステロイド骨粗しょう症という骨の代謝を研究してる派閥に入っていたんですが、この派閥の先生も教授選に立候補しました。

 教授選に勝つと、その派閥は天下を取れます。ところが負けると、教授選に立候補した人だけではなく、その派閥に属する者は全員、大学から出ざるをえなくなるんです。一般企業でいうと、自分が属する派閥の部長が派閥争いに負けて社長になれなかったら、その派閥は新入社員まで含めて本社から異動させられるようなものです。だから非常に厳しい世界なんですよ。

 そこで僕は考えました。もし僕らの派閥のボスが教授選で負けて研究室を出ざるをえなくなった場合、スポーツ医学の道へ進むという選択肢もある。でもそれは嫌でした。「負けたからスポーツ医学へ行く」という図式が自分自身で納得できなかったんです。

 一方、教授選に勝った場合は、もう一生この研究室にいることになるだろうなと思ったとき、それもどうなんだろうと。こんな「勉強こそ人生のすべて」と思っているような人たちの中で一生を研究に捧げることが、果たして俺が本当に望む人生なのだろうかと思ったんですね。

 そういうことを考え抜いた結果、教授選に巻き込まれる前に、リウマチ内科を辞めようと決意したんです。そこで週に1日ほど通っていたスポーツ医学研究センターの先生に、「教授選が始まる前にリウマチ内科を辞めて先生のところで働きたいのですが」とお願いしたところ、「無給ならいいよ」という答えだったので、スポーツ医学研究センターに移ることにしたんです。

 リウマチ研究室にいたときも無給でしたからね。出張病院から大学病院に戻るとまた無給なんです。結婚してるのに無給。研究室の中で給料をもらえるのは教授以下、助教授、講師、助手までなんです。研修医よりも数年上の僕らレベルまでは、有給の枠に入ってないんです。だから慶應病院の8割は研修医が終わっても無給で働いてて、他の病院でアルバイトして生活しているんです。

 僕も固定のアルバイト先があって生活費は何とかなるから、無給でも全然問題ありませんって、慶應大学リウマチ内科を辞めて、スポーツ医学研究センターに移ることにしたんです。内科医と結婚したはずの妻の驚きが今でも忘れられませんね。

 

30歳にして大学病院を辞め、いよいよスポーツ医学への道を歩み始めた辻氏。なかば賭けのような選択だったが、いくつかの幸運と自らの努力により、4〜5年で国内外で高く評価されるスポーツ医学の大家にまでなった。スポーツドクターとしても活躍し、まさに順風満帆。自身でもこの道で一生を終えると思っていたが、さらに人生そのものの風向き変える波乱が起きる──。

次回は辻氏のキャリアの方向性を決定付けた運命的な出会いと独立を決意した経緯に迫ります。乞うご期待!


 
第1回 2008.1.7リリース 個人のQOLを上げて 豊かな世の中に
第2回 2008.1.14リリース自分と向き合い内科医から スポーツ医学の道へ
第3回 2008.1.21リリース QOLの重要性に開眼 運命的な出会いで独立
第4回 2008.1.28リリース スポーツで社会貢献 次々と組織を設立
第5回 2008.2.4リリース 5年後の夢は学校創立 仕事とは楽しんで生きること

プロフィール

つじ しゅういち

1961年生まれ、46歳。東京都出身。「スポーツで社会貢献」という理念の下、4つの会社、1つのNPOを運営するスポーツドクター。大学卒業後、慶應義塾大学付属病院の内科医となるが、医師としての適性に疑問を抱き、スポーツ医療の道へ。映画「パッチアダムス」でクオリティ・オブ・ライフの重要性に開眼。慶應義塾大学スポーツ医学研究センターを経て、37歳のときに独立。以降、トップアスリート、芸術家、ビジネスマン、企業などのメンタルトレーニング、複数のバスケットボールチームの運営、講演、セミナー、書籍執筆など、スポーツ、医療、教育、芸術、ビジネス等の世界で八面六臂の活躍を見せている。

【主な資格・役職】

  • 日本体育協会公認スポーツドクター
  • 日本医師会公認スポーツドクター
  • 認定産業医
  • 医療法人杏会理事
  • NPO法人キッズチアプロダクション理事
  • 都立三田高校学校連絡協議会委員

【主な監督チーム】

  • バスケ・クラブチーム「エクセレンス」監督
  • 車椅子バスケ「No Excuse」アドバイザー
  • 聾バスケチーム「Rough」監督
  • チアリーディングチーム「ライブリーズ」監督

【主なサポートチーム】

  • レラカムイ北海道バスケットボールチーム 2007〜
  • ラグビー日本代表チーム 2006〜
  • NECラグビー部 2005〜
  • 慶應義塾大学バスケットボール部 1990〜2001
  • 全日本車椅子バスケットボールチーム 1999〜2004

【主なサポート選手】

  • 和智健郎 / 喜理子(競技ダンス) 2005〜
  • 柳沢将之(プロサッカー) 2005〜
  • 小池葵(プロボディボーダー) 2002〜2004
  • 芹澤信夫(プロゴルファー) 2000〜2004
  • 佐藤文机子(プロライフセーバー) 1998〜2004
  • 平澤岳(プロスキーヤー) 1995〜2003
  • 野田秀樹(プロレーシングドライバー)1999〜2000

【カンパニーチームドクターとしての主なサポート企業】

  • 株式会社東京スター銀行
  • 株式会社ジャパネットたかた
  • 全日本空輸株式会社 客室本部
  • 株式会社ドリームコーポレーション

【主な書籍】
『仕事に活かす集中力のつくり方』(ぱる出版)
『感じて動く』(ポプラ社・指揮者佐渡裕氏との共著)
『スラムダンク勝利学』(集英社インターナショナル)
『ほんとうの社会力』(日経BP)
●そのほかの書籍についてはコチラ

【関連リンク】
■オフィスドクター・辻

■公式ブログ・元気!感動!仲間!成長!DIARY

■エミネクロスグループ

 
おすすめ!
 
『スラムダンク勝利学』(集英社インターナショナル)

社会現象にもなった井上雄彦氏の漫画作品『スラムダンク』を題材に、スポーツの社会的価値、人生との共通点を伝えようと、渾身の想いを込めて書き上げた一冊。2000年の発行から現在もなお版を重ね、30万部を記録しているベストセラー。

『仕事に活かす集中力のつくり方─“辻メソッド”でフローに集中する人生を獲得する』(ぱる出版)

長年研究してきたスポーツ心理学をビジネスに応用し、「最高の集中力を生む、揺らがない、とらわれない心のつくり方」、「ここ一番で集中するための方法、切れた集中を取り戻す方法」、「降格人事等でモチベーションが維持できないときどうするか?」などのメンタルノウハウを伝授。仕事の成果を挙げたい、充実した職業人生を送りたいと願っているビジネスマンは必読!

『ほんとうの社会力』(日経BP)

「社会力」とは「自分を元気づけ、自分らしく社会で生き抜く力」だと辻氏は定義している。その「社会力」を自分軸、他人軸、時間軸という3つの観点から分析し、更にアメリカバスケットボール界のスーパースター、マイケル・ジョーダンと、『スラムダンク』や『リアル』で大人気の井上雄彦氏の漫画作品『バガボンド』の宮本武蔵を実例にする事で、人生に必要な「社会力」をわかりやすく解説している。自分らしく生きたいと思っている人は必読。

 
 
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「医療・医療機器・福祉関連/医師・技師」の転職事例

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