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元世界一サラリーマンドライバー“ラリーバカ一代”の走り続ける理由
 
還暦を目の前にして世界一過酷なレースにチャレンジし続ける男がいる。篠塚建次郎58歳。これまでパリダカ優勝、WRC優勝ほか、「日本人初」の冠がつく数々の偉業を成し遂げた世界屈指のラリーストにして、世界に四駆ブームを巻き起こした元ビジネスマンでもある。パリダカ出走直前、帰国した際に、篠塚氏にとってラリーとは何か、そして仕事とは何かについて聞いた。  
ラリードライバー 篠塚 建次郎
 

2007年パリダカ出場直前、11月にイタリアで行われたタイヤテストにて(クリックで拡大)

 

ラストランの意味

 

 昨年、「篠塚建次郎、2006年のダカールラリー(注1)を最後に引退」と報道されましたが、実は僕としては全くそのつもりはなかったんです。

 確かに、前回の2006年ダカールラリーは、自分としてのラストランとして走りました。ただ、僕にとってのその「ラストラン」は、「表彰台を狙うような走り方で勝負をするのはこれでラストランにする」という意味だったのです。年齢的にもうそういう走り方は無理だからと。だから僕自身はラリーから引退することなど考えてもいなかった。

 だけど報道する側には、「ラストラン」を「引退」と捉える人も大勢いたので、引退って新聞にかなり大きく出てしまったんですね。だから各方面から「引退するんですか?」って 聞かれて困りました(笑)。

注1 ダカールラリー──パリ・ダカールラリー、通称「パリ・ダカ」。1979年に始まった、フランスのパリからセネガルのダカールまで約1万2000キロを走破するラリー。途中サハラ砂漠を縦断したり、政情不安国を通過することから世界一過酷なレースと呼ばれる。スタート・ゴール地点、コースは変更されることもあるが、いまだに「パリ・ダカ」の通称で世界のラリーファンに愛されている。篠塚氏は1997年に日本人初の総合優勝を達成している。

ラリー人生最大のミス
 

 2006年は日産から離れて、イタリアのテクノスポーツというディーラーのチームから出場しました。これまでとは違ってメーカーチームではなく、プライベーターに近い体制だったので、目標が「優勝」や「表彰台」から「完走」に変わりました。より正確に言うと、そうならざるを得なかった。チーム体制とか、車の熟成度とか考えて、ちょっと表彰台を狙うのは無理だということで、表彰台を狙うラストランは走る前に自然消滅していました。

 僕は2003年に三菱から日産に移籍して、2003、2004、2005年と、日産で走りました。2003年は純粋にワークス体制で、その後もそうなるはずだった。でも、それが変わってしまった。

 2003年、日産が初めてワ−クス体制でダカールラリーに挑戦したとき、3台エントリーした中で、僕の車が最も表彰台に立てる可能性があるポジションにいたんです。「まだ中盤前で、このレース展開。3位が狙えるかもしれない・・・・・・」初出場の車が3位というのは、相当すごいことなわけですよ。だから僕にとってもすごい魅力があって、けっこう気合が入ったんですね。というより欲が出た。初戦なのだから上位入賞で充分だったのに、気合が入りすぎて大クラッシュしてしまった。僕自身の痛恨のミスでリタイヤしちゃったんです。フランスでも日本でも重体報道が流れるほどの怪我をして、自分の手で先の計画を壊してしまったわけで、もう情けないやら悔しいやら、泣くに泣けない状態でしたね。

 僕に対して日産も積極的ではなくなってしまった。二の足を踏んで当然なんですけどね。2004年からは、ファクトリードライバーじゃなく、サテライトチームからの出場という形になってしまったんです。これは今でも僕のラリー人生における最大の失敗だと思っています。

 マシンの戦闘力は、ファクトリーカーが100だとすれば、サテライトチームの車は80くらい。それでも乗せてもらえる車があって走れていた2年間はまだよかったんです。ところが2006年、日産がダカールラリーからの撤退を決めてしまった。当初、日産はダカールラリーに2002年から4年出場する計画でスタートしていたので、3年で打ち切りは誤算でした。あと1年あれば成果が出ていたかもしれなかったので、残念でたまらなかったですね。

 だから2006年は自分でスポンサーを集めて走ったんです。チームはイタリアの日産系のディーラーチームで、スタッフも僕も闘志は満々でしたが、車の戦闘力はサテライトチームよりもさらに落ちて50くらいでした。

 

これまでダカールラリーに出場した21回の中で、2006年だけは勝つことを目標に走れなかった。しかし、だからこそ初めて見えてきたことがあった。篠塚氏は21回目にしてパリダカの真の奥深さに触れたのだった。

これまでと全く違う喜び
 

 今までは常に優勝を狙って走っていたから、2位や3位では、心底ハッピーな気分にはなれなかったんですよ。でも2006年のラリーでは優勝を度外視した走りしかできなかった。1996年の初陣以来ですよ。毎日成績を気にするレベルじゃなかったわけです。とにかく、区間のゴールにたどり着けるかどうか、ただそれだけだった。何も知らずにただひたすら走った初陣の時とは違って、めいっぱいアクセルを踏めないフラストレーションが最初の頃はありましたね。それがだんだん薄れていって、意気もたえだえに懸命に走る車が可愛く思えてきてね。

 ゴールに着けると、それだけでよかったなという感じでうれしくて。トラブルが起きて止まったり、砂に潜ったり、そんなことばかりだったけどおもしろかった。砂でスタックする場所は当然周りも全部やわらかいから、他にもいっぱい車が止まってるわけですよ。そういう連中と、やあやあ、お互いたいへんだね、とか話してみたりね。とにかく楽しいんだ。今までは、こんなことはなかったわけ。車が止まったら早く脱出することに必死で、周りで誰が何をしていようと関係ない。1秒でも惜しくて、先へ進むことしか頭になかったですから。

 今回そういう状況下で、なんとかゴールできるたびに、そこでまた他の出場者と話してみたり。そういう和気藹々の雰囲気も結構いいものだなあと初めて思ったんですよ。今までと全然違う喜びをラリーを走る中で感じたんです。21回目にしてね。

 だけど考えてみれば、パリ・ダカってね、トップを狙って勝負をしてるのは、220台のうちの先頭グループの20台くらいで、それ以外の200台は毎日、とにかくゴールできればいいという、勝つことより冒険を楽しむ人たちなの。自然や自分と闘いながらゴールを目指して、その結果が少しでも良ければもう最高と思う人たちで、エントリーをオープンした途端に、すぐいっぱいになっちゃうくらい人気がある。つまりパリ・ダカは、その人たちに支えられてきてるわけですよ。だから僕は20年もかけて本当のパリ・ダカの醍醐味を知ったような気がするのね。勝つためにだけに走る醍醐味も、それは素晴らしく、優勝請負人のプロドライバーとして大いにパリ・ダカを盛り上げてきた自負は断固としてあるし、絶対に譲らない。けれど、それに終止符を打つと決めた時に、もう一方の醍醐味を得られたのは幸せなことなんじゃないのかな。毎日、苦しみながら砂漠を走ってやっとゴールできるということ自体が楽しいし、走れるだけでうれしい。これからもその世界で生きていかれればいい。生涯現役を目標に、できるかぎり走り続けたいと思ったわけです。

 優勝じゃなく完走を目標にする走りになって、ジレンマはないか? いやいや、それは全然ないですね。確かに、僕はこれまで誰よりも勝ちにこだわってきました。勝つために走ってきたわけですから。

 でも、目標は変わっても、与えられた環境の中でベストを尽くすことは同じです。戦闘力が劣る車でも、この車の限界スピードを納得した上でベストを尽くして走ればいいわけだし、それもまたプロドライバーの腕のみせどころです。

やりたいからやる
 

 じゃあもし勝てる体制になったら、再び勝ちを狙いたいか? それは無理でしょうね。今、例えばファクトリーカーを与えられて、優勝を狙えと言われてレースに出たら、死んじゃうかもしれないね。気持ちだけは優勝しなければという強いものがあるし、納得させるだけの走りをと無理もするだろうから……やっぱり危ないんじゃないですかね。僕ももう58歳だし、反射神経とか動体視力とか、肉体的な衰えは大きいですよ。肉体が気持ちについていけないと事故が起きます。

 そういう意味では、僕は引退してもおかしくない年齢だし、いろんなスポーツ選手の引退がけっこう気になるわけですよ。華々しく引退する人もいますよね。チャンピオンになってパッと辞める人もいる。いい潮時だと拍手で送られる人もいる。その一方で、もう辞めればいいのにと思われながらも頑張っている人がいて、僕も自分の事は棚に上げて、ああまではやりたくないなって思ったりして(笑)。僕もちょっと前までは、華々しく活躍している最中に辞める方がカッコイイと考えていましたけど、今は変わってきましたね。

 まさに自分が、もう辞めればいいのにと思われている世代なわけですが、そういう立場になると、自分がやりたければやればいいんじゃないかなと思うようになった。カッコ悪いというのは、他人が感じているだけで、自分はそう思っていないわけだから、やりたいのであればやればいいんじゃないかなと。やれる環境さえあればね。勝手なものです。

 例えばサッカーの三浦カズさん(三浦知良)なんか、J1からJ2に降格になっても試合に出ている。彼は根っから好きなんでしょう、サッカーが。やりたいからやっている。彼には、すごい栄光があったわけですよね。ここまで日本のサッカーが盛り上がったのは、彼の功績ですよ。それほどの名誉を手にした人物が、J2に行ってまでもまだやっている。桑田真澄投手だって、あれだけのすごい投手だったのに、巨人からいらないといわれた今も、現役で投げたいと動いている。まあかっこ悪いからもう辞めた方がいいんじゃないかなどと、人は言いたいことを言うけれども、自分がやりたければやればいいと思いますね。力があれば使ってくれる。彼らの気持ちも、周囲の思いも、今の僕には痛いほどわかりますよ。

 僕も同じく、ラリーが好きで、これからもずっとずっと走りたいから、走れる限り走り続けるだけです。

2006年のダカールラリーが終わっても、走ることはずっと続けたいと思っていた篠塚氏。しかし、その時点ではチームも車も何も決まってなかった。思案に暮れていたところに、2006年に出場した同じチームのオーナーから、電話がかかってきた。「来年のダカールラリー、ケンジローのために車を用意して待ってる」と。篠塚氏の2007年が動き出した。

チームが申し込んでくれていた
 

 2007年のダカールラリーのエントリーがオープンになったと同時に、テクノスポーツが申し込んでくれていたんですね。その時点では僕は出るとも出ないとも何も言ってなかったんだけどね(笑)。

 そのテクノスポーツは、日産の車を改造してお客さんを乗せる、つまりダカールラリーに参加したいというプライベーターを乗せる車を提供することを商売にしている会社だから、ウチの車はダカールラリーでちゃんと走れますよということをアピールしなきゃならない。でも2006年のダカールラリーではけっこうマシントラブルが出て、僕もリタイヤしちゃった。

 だから2006年のダカールラリーの後、テクノスポーツはチュニジアやモロッコのラリーに出場して、ある程度はテストをしてきたらしく、「マシンが相当よくなってきたんでその確認をしてほしい。2007年のダカールラリーで篠塚がウチのマシンに乗って走ってくれれば、世界的にアピールできるから出場してほしい」ということなんです。

 それと前後するように、もうひとつオファーが来ました。東洋タイヤというタイヤメーカーからです。東洋タイヤは今までオフロードラリー用のタイヤは作っていなかったのですが、それを開発して市販したいと考えてたんです。タイヤはしっかりした知識があって経験もあるドライバーが一緒に開発しないと、いいタイヤは作れないんですね。それで、僕にと。

 車がある、タイヤもある。ちょっと予算も用意してくれるということになった。そうなればGO!でしょう。あとは、実際走るためにはもっとお金を集めなきゃいけなくて、夏に日本に帰ってきて(注2)、平身低頭してスポンサー回りをしました。僕は出会う人たちに本当に恵まれていると思いますね。感謝の一語に尽きます。なんとか参加費用のメドがついたので、2007年のダカールラリーに出場することを決めたというわけです。

 11月の始めに、イタリアでテスト走行があって、その時に、東洋タイヤのタイヤも初めてテストしてみました。あともう一回テストして、それで車とタイヤのテストは終了、あとは本番に臨むという感じです。

 今回の目標は完走です。確実に走ってゴールして、しっかりとタイヤのデータも取る。それが今回の僕のプロドライバーとしての仕事ですから。

注2 夏に日本に帰ってきて──現在、篠塚氏は家族とともにフランスのパリに在住している

自分の役割
 

 もうひとつは、僕のように60歳近くなっても楽しめる競技があるということを、僕が走ることでアピールしたい。そうすれば少しでも、モータースポーツファンを増やしていけるんじゃないかと思うんですよ。それも僕の役目なのかなと。日本でもダカールラリーは通称パリ・ダカとして車好きでなくても知っている。知名度が高いですからね。

 やっぱり、アナウンスする人がいないといけないでしょ。ヨーロッパと違って、モータースポーツが日本でちゃんと文化として育たないのは、今までそういう人がいなかったからだと思うんですよ。ラリーをやり始めた当初は僕の先輩なんか誰もいなかったわけだし。教えてくれる人もいなかった。僕自体、ラリーという言葉を聞いたこともなかったんだから。でもヨーロッパには、僕らのおじいちゃんとかひいおじいちゃんくらいの人で、ラリーをやってたという人がいっぱいいるわけ。相撲や野球のように国民的に人気があって、歴史もある。

 例えばF1を走ってたドライバーが、辞めた後ル・マンを走り、それからまたダカールラリーを走っている。例えばジャッキー・イクスだとか、ペスカロロという、今ル・マンのチームを率いてる60歳を越えたドライバーがいるけど、彼らはいまだにダカールラリーを走るという連中なわけですよ。

 一世を風靡した選手は他にも大勢いて、彼ら自身も楽しんでるし、出場しなくてもテレビ放送があるとコメンテーターとして出てきたりなんかしてます。彼らはすごく有名だから、若い人からおじいちゃんまで、いろんな世代の人が知っていて、彼らがしゃべったことが、広い世代に伝わっていくという世界ができあがっているわけです。

 日本にはそういう人や仕組みがなかったから、モータースポーツが文化として根付いてこなかった。だから、これからの日本を欧米のようにしたい。それは僕がやっていくしかないのかなと、そう思っています。

オヤジが若者に勝てるのがモータースポーツ
 

 特に僕がアピールしたい人は団塊の人たちですね。僕はもう58歳ですが、58歳と20歳の人が競争したら、普通のスポーツだったらほぼ100パーセント、20歳の人が勝つでしょ。ところが、モータースポーツというのは58歳が勝つ可能性がある。特に、短距離じゃなくて長距離の場合は、いろいろ想定外のことが起こるから、58歳が経験で上回ることがあるわけですよ。

 だからモータースポーツっていうのはそういう楽しいものなんだということを、今注目を集めてる団塊の世代にアピールしたいんですね。僕も団塊の世代真っ只中の人間ですからね。

 会社をリタイヤしてやることがなくなって、体を動かすのは苦手という人でも、モータースポーツならばできるかも、車の運転が好きならね。いきなりダカールラリーってわけにはいかないけど、普段自分たちが乗っている車で参加できる、手軽なモータースポーツも多少はあるので、何かモータースポーツに触れるチャンスを作ってあげられればいいなと思ってるわけです。

 

自分のため、そして同世代の人々のために、勝利ではなく完走を目指して、ダカールラリーを走る篠塚氏。次回は篠塚氏がラリーを志したきっかけ、サラリーマン・ラリードライバーとしての生き様に迫ります。乞う、ご期待!

 
2007.1.8 現役にこだわり続ける理由
2007.1.15 サラリーマンドライバーとして
2007.1.22 やっぱり俺はラリースト
2007.1.29 ラリーこそ人生のすべて

プロフィール

しのづか・けんじろう

1948年東京都生まれ、58歳。フランス在住。2007年、23回目のパリ・ダカに出場。今なお現役で走り続ける世界的ラリースト。

1967年、大学1年生でラリーデビュー、在学中に三菱自動車のラリーチームにスカウトされ、1年目で国内チャンピオンに輝く。大学卒業後はその手腕を買われ、三菱自動車に入社。以後32年間、サラリーマン・ラリードライバーとして国内外で活躍。世界ラリー選手権優勝、パリ・ダカールラリー優勝など数々の「日本人初」の偉業を達成。全盛期は稲妻のような鋭い走りから「ライトニング・ケンジロー」と呼ばれ、その名を世界に轟かすと同時に、4WDブームと世界的ブームを巻き起こし、現在も続くSUVという一大市場を作り上げる。

2002年のパリダカ3位を最後に三菱自動車から引退勧告を受けるも、現役にこだわり退社。2003年に日産へ移籍。2006年からフリードライバーとしてレースに参戦している。

●主な戦績
1967   ラリーデビュー
197172  
全日本ラリー選手権 シリーズチャンピオン獲得
1976  
サファリラリー 総合6位(日本人初)
1987  
パリ〜ダカールラリー 総合3位
1988  
パリ〜ダカールラリー 総合2位
アジアン・パシフィックラリー選手権 シリーズチャンピオン獲得
1991  
アイボリーコーストラリー(WRC) 総合優勝(日本人初)
1997
パリ・ダカールラリー総合優勝(日本人初)
1998
パリ〜ダカールラリー 総合2位
2002  
アラス〜ダカールラリー総合3位

●詳しいプロフィール、戦績、近況などは、篠塚建次郎オフィシャルウェブサイト

 
おすすめ!
 
『ラリーバカ一代』(日経BP社)

「サラリーマンだからこそできることがある」「サラリーマンだって、イケているさ」「サラリーマンでひとつの仕事を頑張り抜けば、文字通り『世界一』にだってなれるんだぜ」篠塚氏がこれまでのラリー人生を振り返りながら、「サラリーマンでひとつの仕事を続けるすばらしさ」について語る。今、壁にブチあたっていたり、自信や元気をなくしているサラリーマンにこそ読んでほしい一冊。

 
 
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