キャリア&転職研究室|魂の仕事人|第17回 水中写真家 中村征夫さん-その1-やりたいことがわからず…

TOP の中の転職研究室 の中の魂の仕事人 の中の第17回 水中写真家 中村征夫さん-その1-やりたいことがわからず 悶々としていた10代出会ったとき、体が震えた

魂の仕事人 魂の仕事人 第17回 其の一 photo
やりたいことがわからず 悶々としていた10代出会ったとき、体が震えた
 
2006年8月から9月にかけて、東京都写真美術館で異例の写真展が開催された。タイトルは「海中2万7000時間の旅」。日本を代表する水中写真家・中村征夫氏が2万7000時間をかけて撮った珠玉の水中写真の数々に、訪れた約4万人の観客は酔いしれ、あるいはど肝を抜かれた。今回は、還暦を迎えてもいまだ第一線で走り続ける水中写真家に仕事の意義を聞いた。  
水中写真家 中村征夫
 

海中2万7000時間の旅

 

 これまで何度も写真展は開催してきましたが、「海中2万7000時間の旅」(注1)は、中でも格別でしたね。写真展のタイトルの「2万7000時間」って、僕がこれまで水中で撮影してきたのべ時間なんです。僕の水中写真家としてのこれまでの集大成を見てもらいたいとの思いでした。だから展示する作品もこだわりにこだわり抜きましたね。これまで撮影してきた思い入れの強い作品に加え、最近撮った未発表作品、計218点を展示したんです。中でも、原寸大のザトウクジラの母子の写真は、観にきてくれたお客さんに大好評で、苦労して展示した甲斐がありました。日本で初めての試みだったんじゃないかな。

 東京での会期中はすごく大勢の人に観に来てもらったのですが、一番うれしかったのが約7割がクチコミだったってこと。これは一度足を運んでくれた人がよかったよって周りのいろんな人に伝えてくれたということだからね。さらにほとんどがダイバーとか写真関係の人じゃなくて一般の人だった。これもすごくありがたいことだなと。僕はやっぱり一般の人たちにメッセージを送りたいために、水中写真をやってるようなものだから。

写真左:等身大のザトウクジラの親子の写真を展示している最中のカット。35ミリのモノクロフィルムをここまで拡大して展示するのは中村氏としても、東京都写真美術館としても初 写真右:39日間の会期中には約4万人もの人が訪れた(写真提供/中村征夫氏)

完成したザトウクジラの等身大パネル。人と比較するとその巨大さが分かる(写真提供/中村征夫氏)

注1 海中2万7000時間の旅──2006年8月5日から9月18日まで、東京都写真美術館で開催された中村征夫氏の水中写真展。東京都写真美術館がひとりの水中写真家による企画展を開催するのは初。中村氏も企画段階から関わったという。東京都写真美術館によると、会期中、訪れた観客数は延べ3万8,949人。一日平均は998人と、過去に開催した「没後50年記念ロバート・キャパ展(一日平均977人)」を上回った。

水中写真を撮るようになって今年で41年目を迎える中村氏。しかし20歳まではカメラなどには全く興味がなかった。意外にも遅いスタートに思えるが、そのルーツは幼少時代にまでさかのぼる。

暗い物置の中から外を見る
 

 実は僕はね、写真には長いこと全く興味がなかった。なんせ写真を志したのがハタチのころだからね。ただ、今思い返すと、その最初の萌芽というかきっかけはもっと幼い頃、4歳くらいのとき、あの時がそうなのかな、というのがあったりするんです。

 僕は秋田出身なんですが、生まれてすぐ、里子に出されたんです。母親は僕を生んで2週間後に亡くなったので、ウチにお乳をくれる人がいなくなっちゃったから。たまたまウチから8キロほど離れたところに、農家で親戚とかじゃなくて全然知らないお宅だったんだけどね、そこに、藤原さんというお子さんを亡くした方がいらして、代わりにというわけじゃないけど僕が預けられた。

 僕は病弱だったから何度も死にそうになったらしくてね。そのたびに藤原家の人がウチに返しに来るんだけど、ウチは貧しい家で何もなかったし、お乳を上げる人もだれもいない。だから、死んでもいいから育ててくれって強引に引き取ってもらったらしいんだ。

 ところが、4歳くらいになると今度は、「返せ、返さない」って、両家の間でもめるようになった。実の父親が僕を引き取りにたびたび藤原家に来るようになったんだけど、そのたびに藤原家の親父さんともめてたわけね。でも僕はその人が誰だかわからなかった。物心つく前から他人の家に預けられたんだから当然なんだけどね。

 あるとき、いつもだったら近所の方が「あのおじさんが来たよ」って裏口から伝令を飛ばしてくれるんだけども、間に合わなかったことがあって、いきなり実の父親が家の土間に飛び込んできたことがあったんだ。僕は藤原家の親父さんに、広い土間の片隅にあった物置の中に閉じ込められた。「出てくるなよ!」って。

 真っ暗な物置の中にいても、声は全部聞こえてくるわけだ。「あれほど返しにいったのに、今更何ですか! 死んでもいいって言ったのに何ですか! もうウチの子だ!」とか「何言ってるんだ! この子はオレの子だ!」とか、言い争ってる声がね。

 そのときにね、僕は暗い物置の小さな穴から、その様子をじーっと観察してたんだよ。あのおじさんが来るたびに、なんで僕は隠されたり、山へ連れていかれたり、出てくるなって言われたり、何なんだろう、あのおじさんは? って思いながらね。

 でも今考えると、これってまさにカメラなんだよね。暗ーい箱の中の小さな穴から外を見るって。

 僕ね、それに気づいたとき、ほんとに「これだったのか!」と思ったのね。僕にとってカメラは長いこと何の関わりもなかったのに、なぜ二十歳のときにいきなり始めることになったのか。それを考えていたときに、ふとその光景が頭に浮かんできた。その瞬間、「ああ、そうか!」って。4歳のときにああいうことがあったな、あのときから、すでにレールが敷かれてて……。もっといえば生まれたときから決まってたのかもしれない。僕がカメラマンになるということは。そう思えてきたんだな。

父親の虐待・蒸発
 

 その後は結局、4歳のときに父親に強引に実家に引き戻されたんだけど、家にはすでに父が再婚してた義母と兄弟がいた。実の兄弟とはいえ、それまでずっと離ればなれに育ったからぎこちなくてね。なかなか仲良くなれなかった。4歳まで育った藤原家の子供たちとの方がずっと仲がよかった。

 家では親父にひどく苛められてね。愛するおフクロが僕と入れかわりで死んじゃったから、僕のことは可愛くはなかった。それは子供心にもよく解かるものです。だから親父に抱っこしてもらったこともないし、かわいがってもらった記憶は一切ない。つまり、親父は僕を自分の手で愛情を注いで育てるために引き戻したんじゃなかったんだね。

中村氏をいじめ続けた実父は、中村氏が小学生のときに大借金を作って失踪。以後は義母が幼い中村氏たち7人兄弟を女手ひとつで育て上げる。義母の苦労を間近で見ていた中村氏はこれ以上迷惑をかけたくないと、高校卒業と同時に上京、大手家電販売店の石丸電気に入社。しかし1年しかもたなかった。

かすんでいた「やりたいこと」
 

 石丸電機に入ったのは、修理関係の技術者になりたいと思ったから。秋田にいるころに通ってた高校は普通科だったんだけど、やっぱり上京してからは手に職をつけなくちゃ、得意技を身につけなくちゃ、と思っていたんだね。ところが入社後の配置が全然違うところになってしまって。修理じゃなくて売り場の方へ回されたんだ。

 売り場は売り場で楽しかったんだけど、修理の方をやりたかったからね。それでもしばらくは頑張ったんだけど、やっぱりこれは違う道に来ちゃったなと思って、誰にも相談せずに1年後にすぱっと辞めちゃった。次の転職先のアテも何もなく(笑)。

 でもね、自分には何かやりたいことがあるってことだけはわかってた。それが手を伸ばせば届くような頭の上の方にかすんでるわけだ、もやーって。でもそれが何かは分からない。だから、何だろうっていつも思ってた。僕が一生やりたい仕事っていったい何だろう、今は分からないけど、でも、それは絶対あると確信してた。だから、いずれそれは必ず見つかるだろうから、それまであきらめず真面目に頑張らなきゃと思って、いろんな仕事をやったんだ。

 石丸電気を辞めた後は、新聞の求人欄をしょっちゅう見てたなあ。まず最初に勤めたのが酒屋さん。まず住むところを探さなきゃってことで住み込みで働けるところを探してたんだけど、ちょうど酒屋さんが募集しててね。仕事は御用聞きとかいろいろ。

 でもね、自転車で御用聞きをしてる間にも、もやっーとしたものを感じるんだよね。常にこのもやーっとしたもの、俺がやりたいことはなんだろうなと思いながら仕事をしてたなあ。

もやーっとしたものを自覚しつつも、酒屋でまじめに働いていた中村氏。しかし酒屋の主人もそんな中村氏を気に入り、さまざまな仕事を任せるようになった。しかしそのもやーっとしたものがはっきりと姿を現す瞬間がやってきた。それは偶然とも運命とも言いがたい衝撃的な出会いだった。

俺がやりたかったのはこれか
身体がワナワナ震えた
 

 仕事が休みだったある日、新鮮な魚貝が食べたいなと思って、適当に東海道線の電車に乗って海へ向かったのね。で、窓から海が見えたからそこで下車して、海に入った。そこは真鶴という場所だったんだけど、水もきれいで魚とかサザエとかアワビとか海草とかいろんな生物がいてさ、故郷の秋田の海とずいぶん違うなあと思ったのを今でも覚えてる。それから真鶴が気に入って、何度も通うようになったんだ。でもある日、すごくびっくりしたことがあってさ。

 その日はいつもよりも沖の方まで泳いで、岩でひと休みしてたんだ。そしたら突然、目の前にボコボコボコーって真っ黒な物体が3つ浮上して来た。もうほんとにびっくりしてね。最初は潜水艦かと思った。なんでこんなところに潜水艦が?と思ってよく見ると、全身真っ黒で背中に消火器のようなものを背負ってた人だった。3人のダイバーだったんだ。さらに驚いたのはカメラらしきものを首からぶら下げてた。その姿を見てたらわけもなくドキドキしてきてさ。ダイバーたちにいろいろ聞いたんだ。

 「それ、なんだべか?」「水ん中で息ができるのか?」「写真も撮れるのか?」って秋田弁丸出しで聞いたら、ダイバーたちは「おまえ、何にも知らねえんだな」って言いながらもダイビングのことや水中カメラのことを教えてくれたんだ。そのときに初めて水の中で息ができるスキューバダイビングや水中でも写真が撮れるカメラのことを知ったんだ。そんなダイバーたちを見ているうちに体がワナワナ震えてきてさ。「俺、なんでこんなに感動してんだ?」って。「ひょっとしたら、俺が一生をかけてやりたいことって、これだったのかな?」って思ったんだ。

 だったらやってみるべと。そこからすぐ水中写真の道へ入ってったわけ。だから理屈じゃないんだよね。ただ自分の内部から湧き上がってくる熱い衝動に従ったというだけ。

なけなしの貯金をはたき、水中写真の道へ
 

 そのころ、酒屋で働き始めて1年くらい経ってたんだけど、住み込みで食事付きだったし、給料も使い道がないから、けっこうお金がたまっててね。それをダイバーたちと出会った翌日に全部下ろして、潜ったり水中写真を撮るための器材を買ったんだ。

 当時、器材はすごく高くてね。とても全部は買えなかったから、とりあえず素潜りするためのウエットスーツと、マスク、シュノーケル、フィンの三点セット、リュックサック、そしてカメラ。そのくらいで全財産が消えちゃったね。特にウエットスーツが高かった。高い割に今の製品に比べたら保温力がほとんどゼロに近くてね。ブーツもない時代だから、普通の靴下、手はグローブじゃなくて軍手だった。さらに頭にかぶるフードもなかったから、冬場は寒くて寒くてね。頭が割れんばかりだったよ。あんな装備で1月2月、よく潜ってたなと思うよね。

 カメラはニコンのニコノス1型てヤツで、白くてなかなかかっこよかったんだ。後に小笠原の海で落っことしちゃってなくなっちゃったんだけどね。でも外部ストロボまでは買えなかった。フィルムも当時は高くてモノクロのネガフィルムしか買えなかった。

 そろえられたのはここまでだったから、シュノーケリングしながらモノクロフィルムで自然光で撮るしかなかった。それでも、これで俺も水中写真をやれると思って、うれしくてしょうがなかったんだけど、最初は全然ダメだった。撮っても撮っても真っ白な写真しか撮れなかったんだ。

 

ついに自分のすべてを懸けられるものに出会ったと思った中村氏だったが、ことはそう簡単には運ばなかった──。

次回は念願の水中撮影を始めてすぐに訪れた困難、それを乗り越えてプロカメラマンになるまでの道のりを熱く語っていただきます。乞う、ご期待!

 
2006.12.4 1 やりたいことがわからず 身もだえしていた10代
2006.12.11 2 命がけのスクープで 運命が変わった
2006.12.18 3 31歳、裸一貫で独立
2006.12.25 4 仕事は生かされている証

プロフィール

なかむら・いくお

1945年秋田県生まれ、61歳。日本を代表する水中写真家。撮影プロダクション株式会社スコール.代表。

高校卒業後、上京。大型家電量販店の販売員、酒屋の店員、お抱え運転手、お菓子の卸売り業など、職を転々としながら独学で水中写真を学ぶ。24歳のときに水中カメラマンとして水中撮影プロダクションに入社。

7年間勤務した後独立。以後水中写真家として新聞、雑誌、テレビなどの各種媒体に水中写真、映像を提供。自身の出演、講演も多数。写真集、著作、DVDなど受賞作品も多い。

2006年8〜9月には水中写真家としては初めて東京都立美術館で単独で企画展海中2万7000時間の旅を開催。大反響を呼び、ほぼ口コミで4万人の観客を集める。
(2007年1月4日(木)〜2月21日(水)10:00〜18:00 秋田市立千秋美術館でも開催されます)

●公式ブログ:水中写真家・中村征夫のぷかぷかブログ

●主な受賞歴・作品
1988 第13回木村伊兵衛写真賞受賞(『全・東京湾』『海中顔面博覧会』)
1994 第9回文化庁芸術作品賞。(NHKラジオドキュメンタリー『鎮魂奥尻・水中写真家中村征夫の証言』)
1996  第12回東川写真賞特別賞。(『カムイの海』)
日本産業文化映像祭第1位。(ハイビジョンソフト『カムイの海』)
1997 第28回講談社出版文化賞写真賞。(『海のなかへ』)
1998 年鑑日本の広告写真’98優秀賞。

詳しいプロフィール・受賞歴・作品はこちら

 
おすすめ!
 
 
『海中奇面組』(KKベストセラーズ)

『読売新聞』の人気連載が、カラー写真満載のフォトエッセイとして新登場!“半漁人”中村征夫が、長き水中の旅を通して撮ってきた作品の中から77点を選び出し、だれも知らない撮影秘話を交えたエッセイで紹介。今回は、特に魚の“面白い顔”に焦点をあてたスペシャル・エディション。

 
『海中2万7000時間の旅』(講談社)

東京都写真美術館での写真展に合わせて作られたDVD付き写真集。写真219点を収録。DVDは、オホーツク、小笠原、南オーストラリアなど7つの海の特別映像、約30分。

 
 
ラジオのパーソナリティも!
 
 
「中村征夫の世界の国から」
ニッポン放送(毎週水曜日放送)20:30〜20:50

2006年10月4日(水)〜半年間
さまざまな国を旅してきた中村氏が、それぞれの国での体験談や現地の様子をおもしろおかしく伝える。ニッポン放送のアナウンサーと一緒に、初めてのパーソナリティを務めている
 
 
お知らせ
 
魂の仕事人 書籍化決!2008.7.14発売 河出書房新社 定価1,470円(本体1,400円)

業界の常識を覆し、自分の信念を曲げることなく逆境から這い上がってきた者たち。「どんな苦難も、自らの力に変えることができる」。彼らの猛烈な仕事ぶりが、そのことを教えてくれる。突破口を見つけたい、全ての仕事人必読。
●河出書房新社

 
魂の言葉 魂の言葉
動いていればやりたいことは必ず見つかる 動いていればやりたいことは必ず見つかる
インタビューその2へ

TOP の中の転職研究室 の中の魂の仕事人 の中の第17回 水中写真家 中村征夫さん-その1-やりたいことがわからず 悶々としていた10代出会ったとき、体が震えた