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魂の仕事人 魂の仕事人 第15回 其の一 photo
経営者の裏切り・破産で会社倒産 35歳でついに独立 スーパー町工場の誕生
 
5年間勤めた天文台を辞め、主に望遠鏡を製作している光学機器メーカーへ転職した中村氏。本格的にものづくりに没頭する日々が始まった。しかし、天文に興味のない中村氏がなぜ望遠鏡つくりに打ち込めたのか。中村氏はいう。「興味がない方がいいものが作れる」と。
三鷹光器株式会社会長 中村義一
 

光学機器メーカーへ転職

 

 天文台での仕事は楽しかったんだけど、6人の兄弟を養うには給料が安すぎた。中学までしか出てないから、この先ここにいても昇給は見込めなかったしね。でも辞めるって教授たちに言ったら、給料のことはなんとかするから辞めるなって言ってくれて。

 11人の教授が毎月の給料から自腹で100円ずつカンパしてくれたんですよ。でもそれが教授の部下にバレて大騒ぎになってね。部内にも生活が厳しい人はいるのに、なんで工作室の中村に100円もやるんだって。組合で吊るされちゃってね。それでやっぱり辞めるって退職願いを出したんだけど事務長にダメだって突き返されちゃって。なかなか辞められなかったんだけど3回目に東大の学長にようやく認めてもらった。苦労して作った天文台だったから、その創立メンバーの息子の僕にはいてほしかったんでしょうね。

 辞めた後はニコンの下請けの府中光学っていう会社に入った。天文台の先生から、「天文台はニコンから望遠鏡を買っている。その下請けの会社なら技術を覚えられるだろう」って言われたんで、そこで働いてみようかなと。

興味がないほうがいいものが作れる
 

 府中光学では望遠鏡を作ってました。望遠鏡の仕組みは天文台にいるころに勉強して知っていたから、それほど難しくはなかったね。もうこのころから「これからはものづくりで生きていこう」と強く思っていたから、仕事は楽しかったね。一生懸命打ち込んだから、3年後、25歳のころにはどこに出しても恥ずかしくない望遠鏡を作れるという自負はあった。当時、ニコンに納めてた直径30センチの望遠鏡は全部僕が設計したもの。自分が設計したのがまとめて納品されるんだから、それはうれしかったよね。

 だけど天体観測や望遠鏡には興味はなかったんじゃないかって? そのときも全く興味はなかったよ。でもだからこそいいものが作れたんじゃないかと思ってる。興味がなかったからこそ、興味がない人でも使いやすい望遠鏡を作ろうと常に思って仕事をしてた。興味がない人でも使いやすい望遠鏡なら、興味のある人ならもっと使いやすいでしょう? だからいいものをつくるのに、興味のある・なしは実はそれほど関係ないと思うよ。

府中光学で着実に経験を積み、技術を磨いた中村氏だったが、会社の経営者が代替わりしたのを機に退職。1〜2年休養期間を経たあと、知人に請われ共に会社を興す。30歳のときだった。

三鷹光機製作所設立に参画
 

 会社を辞めて1、2年はこれから何をやろうかなって考えながら、ただふらふらしてました。このへんは工場をやろうにも電気が来てなかったからね。何もできない。友達が仕事やれ仕事やれって、いろんなものを持ってくるけど、いくら持ってきたって電気がないんじゃあしょうがない。機械が回らないから。

 本当は好きな農業がやりたかったんだけど、農業ではあまり稼げなかったから断念したんだよね。兄弟を食わせていかなきゃいけなかったから。でも農機具だったら商売になると思って、手伝い仕事で細々と農機具を作ってた。

 先行きは見えなかったけど、別に不安はなかったね。なんとかなるだろうってひとりで呑気にやってたから。

 そうこうしてたら、あるお金持ちの農家の人から一緒に会社をやらないかって持ちかけられて。「もう農家は先が見えてるから、一緒にやらせてくれ」と。僕もそろそろちゃんとした仕事をやろうかと思ってたから、承諾したんです。その人はお金も土地もたくさんもってたから、その人の土地に作業場を建てて、その人が社長で僕が技術部長ってことで農機具の製作会社を始めた。それが「三鷹光機製作所」です。

 工場では、農機具だけじゃなくて宇宙ロケットの先端に搭載する天文観測機器も作ってました。工場が天文台に近かったから、天文台の先生がよく遊びに来てたんだけど、「よそのメーカーで作った観測機器が故障ばっかりしてうまくいかない」とか、「ロケットがうまく飛んだと思ったら観測機器が故障して何もデータが得られない」っていう話をよくしてた。

 天文台の先生も、僕が飛行機好きなのを知ってるから、そのうち協力してくれってなった。最初の現場でいろいろアドバイスすると「おまえそこまで知ってるなら、少しロケットのほうに参加しろ」ってなって、それからずるずるとロケットの方へ入っていって(笑)。三鷹光機製作所を立ち上げて2年か3年ころから始まったかな。

三鷹光機製作所は中村氏のアイデアと技術力で年を経るごとに順調に成長。従業員も徐々に増えていった。農機具とロケットの二本柱で順風満帆に思われたがしかし、思わぬ人から、思わぬ仕打ちを受ける。

社長の裏切りで会社倒産
三鷹光器の誕生
 

 あるとき、堤防に芝を植える仕事を請け負っていたある会社が、芝に加えて玉ねぎの種を植えつけたいという依頼を受けた。ところが玉ねぎの種って三角ばってるからなかなかうまくいかない。どこのメーカーも成功しない。どうしてもうまくいかないんで、東大に相談しに行ったら、教授が三鷹におもしろいヤツがいるからって、ウチの工場に連れてきちゃった。「こういうわけなんだけど、おまえできるか?」って聞くから、「できるよ」って言って作ったわけ。

 この種まき機が評判になって、農林大臣が工場に来た。社長はこの種蒔き機は絶対に売れると思った。そういうふうに思ったら僕なしでもやれると思ったんだろうね。いつのまにか僕が取得した特許の名義がみんな社長名義に変わってた。得意先が、「なんか最近、社長がいろんな人を連れてきて挨拶にくるんだけど、どうなってるの?」って言ってはきてたんだけど、僕は「いや、どうもしてませんよ。変わりないです」なんて答えたりしてた(笑)。社長は絶対に売れると思ったら独り占めしたくなったんだろうね。

 しょうがないから「社長、ひとりでやりたかったらどうぞやりなさい。僕はもう農機具はやらない。しょうがないから、また嫌いな望遠鏡でも作るよ」って言ってね。

 でも会社は間もなく倒産しっちゃったんだけどね。金に目がくらんだ社長が悪いヤツに騙されて1年間で2億円の借金を作っちゃった。昭和40年ころで、一坪2000円の時代だから相当な額だよね。

 で、社員を路頭に迷わすわけにはいかなかったから、ウチの隣の畑を潰して会社を作った。それが今の三鷹光器株式会社です。

中村氏が35歳のときに立ち上げた三鷹光器では引き続きロケットに搭載する観測機器や天文観測の大型望遠鏡などを製作。クライアントは東京大学宇宙航空研究所や天文台だった。昭和47年、設立した年にいきなり、東京大学天文台の日食観測用実験装置の設計製作、東京大学宇宙航空研究所のK-lO ロケットに搭載するX線望遠鏡の製作、第8次南極観測隊の観測機器の製作など、目覚しい実績を打ち立てる。

人工衛星の開発は30年やってない
 

 当初は、東大の宇宙研がウチとずっと一緒に人工衛星の開発をやろうってことでやってたんだけど、ここ約30年はやってないんだよ。どうしてかっていうと、大企業が東大に「どうしてあんな学歴のないヤツ、しかもあんなバラック工場みたいなところに仕事を出すんだ。設備もない、お金もない、町工場にやらせるのが間違ってる」って圧力をかけた。そしたら宇宙研も、じゃあもう、学歴と資格のあるところに注文しようってことになって、もうここ30年はやってないわけ。

 実際に宇宙研から受注して実績を残してもそんなのは認められない。やっぱり学歴のある人が認められて、我々読み書きのできないバカはダメなの。宇宙研の仕事を請けてたときだって僕は図面も書けないし字も書けなかったから。それでも、いろんなアイデア持ってるから、図面が書けなくても故障しない機器を作ることは得意なんだけど、現代、ここまで大学生が大勢はびこってくると、学のある人間を優先にするわけ。

 だからここ30年間、ほとんどロケット、人工衛星関係の開発はやっていません。だからここのところ、人工衛星もロケットも開発が停滞してるでしょ。みんな故障してるからね。それで、どうもウチに発注しなくなってから故障してる率が高くなってるってことがここにきてようやくわかったみたいで。

 今の総理が、これまで約1兆円も損してるからもうロケットの打ち上げなんてやめちまえって。やめちまえってことは解散しちまえってこと。アメリカと共同開発やったほうが早い、時間の無駄だって。

 だからここへ来てまた、ぼつぼつ宇宙研の人が顔出しに来てる。今まで散々申し訳ないことをしたけど、今度失敗したら解散しろって言われたんで、もう一回、何とか考え直して作ってくれないかって始まったわけ。でも僕のところには絶対来ない。僕、怒ってるから。だから社長である弟のところへ説得に来てるわけ。弟も弱っちゃって。でも義理もあるから「兄貴、なんとか作ってもいいか?」って僕に言ってくる。僕は「おまえがどうしても作りたいというならしょうがないけど、あんまり深入りするなよ」って。今まで国の仕事やって儲かったためしがないからね。この建物見ろって。ほかの友達の同業者がみんな立派な工場作ってるのに、こんなアパートみたいな工場でやってるのはウチくらいだって。だけどどうしても弟が、友達の教授のメンツを立ててあげたいというなら、まあしょうがない。ということで、今、ウチでロケット、人工衛星を3台は作ることになってます。

 去年、ウチで作ったX線望遠鏡が人工衛星に搭載されて飛んでます。来年は「セレーネ」っていうプロジェクトで、飛ばそうってやってる。それを作ったら終わりにしなさいよと。いくらやったって微々たるお金しか貰えないんだから。

 つまり「おまえのところなんか、わずかな報酬で潰れないんだからこれくらいでいいだろ」ってこと。大手企業はたくさん貰ってるんだよ。なんでこんな差別するのって思うよ。だからやらないほうがいい。国の仕事辞めてから、三鷹光器はよくなってるんだもん。

昭和56年には宇宙科学研究所のSEPAC 計画に参加。三鷹光器設計製作による特殊カメラがスペースシャトルに搭載された。その際、大手企業2社との競合になったが、NASAの一年間に渡る厳しい製品チェックを潜り抜けられたのは三鷹光器のカメラだけだった。

大企業との競合を制す
NASAも認めた技術力
 

 宇宙研でスペースシャトルに搭載するカメラを作ろうってなったとき、最初、ある大手電機メーカーT社が宇宙研から受注してもないのに勝手に作って、納品したらしいんだ。宇宙研もびっくりしちゃってね。でも製品がひどかった。「こんなカメラ、シャトルに乗せられるか! 真空状態で使えるわけないだろう!」って、まず宇宙研に笑いものにされた。

 もうひとつの大手電機メーカーM社も図面を書いたんだけど、また宇宙研の人にバカにされた。「おまえら何考えてるの?」って。

 それで、三鷹光器はいろんな望遠鏡を作ってるんで、どういうの作るかちょっと図面書いてくれって宇宙研から言われた。弟がすぐにデッサンしてね、宇宙のカメラはこうなりますと。それが好評でね。

 でも大手企業は宇宙研に「三鷹光器は、技能オリンピックの資格を持ってる人がいない」とか「社長は中学しか出てないバカだ」とか、「コンピュータも使えない者がどうして経営ができるのか」ってクレームをつけた。「ウチは優秀な人間もすごい設備もそろってるんだからウチに発注しろ」って、最初からずいぶんすったもんだやってね。

 でも結局予算が決まって、3社に頼みましょうということになった。筑波の宇宙センターで検査が通ったら3台とも買いますということで、スタートしたんですよ。それで、ウチと大手企業2社と1台ずつ作ってNASAで1年くらいかけてたっぷりと厳しい検査をやった。NASAの検査はマイナス150度で動くことが条件だったんだけど、他の2社のはマイナス120度で止まった。ウチが作ったのはマイナス160度を超えても動いた。ということで、ウチに決定した。

 なぜ大企業の製品がウチのような町工場の製品に負けたか。大企業の人たちは新しいものをつくるとき「発想」ができないだろうね。確かに皆さん僕らより頭いいと思うよ。ただ、アイデアがない。それは「ものづくり」においては致命的なんだよね。

日本を代表する大手メーカーとの競合に勝ち、NASAのスペースシャトルに搭載された高感度テレビカメラ

 

宇宙観測分野で目覚しい成果を挙げた中村会長が次に目指したのは医療だった。そしてこの分野でも世界の医師から賞賛を得る機器を製作する。さらにその先は新たな世界があった──。

次回は大企業に勝つ秘訣、どんどん未知の世界に進出する理由、そして中村会長のものづくりにおける信条に迫ります。乞うご期待!

 
2006.10.2 1.ものづくりの原点は 子供時代のいじめだった
2006.10.9 2..35歳でついに独立 スーパー町工場の誕生
2006.10.16 3.誰にも負けない新しいモノを 便利じゃなくて役立つモノを
2006.10.23 4.仕事はただ生きるために 人の役に立てば満足

プロフィール

なかむら・よしかず

1931年東京生まれ、75歳。光学機器メーカー三鷹光器株式会社代表取締役会長

父親が東京天文台(現・国立天文台)に勤めていたことから、幼少時よりものづくりに親しむ。

13歳のとき、学徒出陣で携わった飛行機づくりで本格的にものづくりに目覚める。

16歳で自力で家を作る。

17歳で東京天文台に就職。22歳で府中光学に転職、望遠鏡づくりに没頭。一生ものづくりで生きていこうと覚悟を決める。

28歳で府中光学を退職。1〜2年就職せずにふらふらと過ごす。

30歳で資産家の知り合いに乞われ、三鷹光機製作所を設立。技術部長に。東京大学と組んでロケット関連の機器を製作。

1966年 35歳で独立。三鷹光器設立。南極観測隊の観測機器を製作。観測隊にも参加。

1981年 三鷹光器製の特殊カメラがスペースシャトルに搭載される。

1986年 ライカから業務提携依頼。脳外科手術用のレンズ開発スタート。

1988年 医療業界に本格的に進出。

1994年 画期的な脳外科手術用顕微鏡を全世界に向け販売開始。

1998年
・世界で初めて太陽コロナを高解像度で観測に成功
・非接触三次元測定装置NH-3が中小企業優秀新技術
・新製品賞優秀賞受賞
・火星探査衛生「のぞみ」の4つの観測機を搭載。

2005年 脳外科手術用顕微鏡で「勇気ある経営賞」優秀賞受賞、脳神経外科用バランシングスタンドで「東京都ベンチャー技術大賞」受賞

2006年 産業振興の一環として天皇陛下が三鷹光器をご視察。

テレビ出演、講演多数。現在も、産業、天文、宇宙、医療、環境の分野で新製品の研究・開発に多忙な日々を送る。

 
おすすめ!
 
『お金は宇宙から降ってくる』(中経出版)

なぜいち町工場から世界が驚く新製品が生まれ続けるのか……。中村会長の生き様、ものづくりにかける職人哲学、未来の新技術まで、中村会長と三鷹光器のすべてがつまった一冊(会長自身はタイトルを『宝は空から降ってくる』としたかったらしい)。

 
『社員はこの「型破り」教育で伸ばせ!—なぜ町工場に、世界のライカが一目も二目も置くのか』(三笠書房)

少数精鋭を旨とする中村会長が初めて明かした驚異の人材育成法。採用時の人材の見極め方、入社後の社員の伸ばし方など、目からうろこの至言が満載。人材採用・育成に悩む経営者、人事関係者は必読!

 
 
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魂の言葉 ものづくりに、興味のある・なしは関係ない ものづくりに、興味のある・なしは関係ない ものづくりに、興味のある・なしは関係ない
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