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魂の仕事人 魂の仕事人 第6回 其の一 photo
やりたいことが分からない……放浪の始まりは青年海外協力隊 エチオピアで人生が変わった
吉岡さんのキャリアは青年海外協力隊→テレビCMの制作会社→旅行雑誌記者→報道カメラマン→報道記者とめまぐるしく変わっている。現在は東京新聞の社会部の記者でありながら、これまで10冊の本を書き(現在11冊目の本を執筆中)、5本の映画を撮り、1冊の写真集を出している。いちサラリーマンであるはずの吉岡さんがここまでやりたいことができるのはなぜか? しかしその過程は挫折と苦悩の連続だった。
新聞記者・ノンフィクション作家・ドキュメンタリー映画監督・写真家 吉岡逸夫
 
兄貴の呪縛から逃れたかった
 

 高校卒業して写真の専門学校に入ったんだけど、最初からカメラマンとか報道の世界にあこがれてたわけじゃないんだよね。

 オレには4人の兄貴がいるんだけど、みんな子供の頃から優秀でね。よくバカにされてた。そんな兄貴たちと同じ土俵で勝負したら絶対負けるから、違う世界へ行きたいと思ってた。だって「秀才の世界」ではずっとバカだって言われるわけだから。

 両親が早くに亡くなったから一番上の兄貴が親代わりでね。高校卒業間近になって、そのころ歯科医になってた兄貴はオレに「歯科技工士になれ」って言ってきた。兄貴がいうからなんとなくそうするべきなのかなぁと思ってたんだけど、いざ歯科技工師の学校へ受験をしに行ったとき、実感がわいてきたんだよ。オレ、このまま歯科技工士になっちゃうのかなあって。そのとき、「これじゃイカン!」って思ったんだよね。「オレの人生これじゃイカン!」って。それで兄貴とケンカした。「歯科技工師にも歯医者にもならない!」ってさ。

 そりゃ兄貴は怒ったよ。「じゃあ何やるつもりだ、オマエは!」って。だからオレは「芸術をやるんだ!」って言っちゃったんだよ。「芸術って何やるんだ?」って言われて「わからんけどこれから探す!」って言ってさ(笑)。

 小、中、高校とずっと「技能科」が得意だったの。特に美術と音楽はどちらも「5」だった。得意っていうか好きだったんだろうね。身体を動かしてモノを作ったり表現したりっていうのが。

 
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 中でも一番やりたかったのが音楽だったんだよね。ブラスバンド部でトロンボーン吹いてたし。でも田舎だからどうやってプロになるかわからなかった。音楽でメシを食うプロの世界なんて想像もつかない。でも音楽がダメでも何か表現に関われることがやりたくて芸術学部のある大学を受けたんだけど、見事に滑っちゃって(笑)。

 で、どうしようかと悩んでいるときに雑誌か何かで写真の専門学校の広告を見たんだよね。写真はやったことないし、興味もあまりなかったけど、クリエイティブだし、芸術だし、写真学校で手に職をつけようというか……あまり確実なものではないんだけど他になかった。消去法で出てきた答え。音楽や絵で食っていくことは見当もつかなかったけど、写真ならなんとかなるんじゃないかって。とりあえず、表現できるってことで写真を選んだんだよね。

 
写真から映像へ
 
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 もちろんカメラなんてまともに触ったことないし、知識もなかった。だから入学してからがタイヘンだった。他の生徒はほとんどが写真撮影の知識があるからいいけど、オレは全然知らないから。もうついていくだけで精一杯。毎日必死。だから成績は悪かった。ほとんどが不合格一歩手前のCのオンパレード。何より何を表現すればいいのかわからなかったのがつらかったなぁ。

 で、もうどうにもならなくなって一回、すべてを捨てて家出しようと思ったんだよ。でも電車の中で、もうひとりの自分が「逃げたり辞めるのはいつでもできるじゃないか。逃げる覚悟があるなら恐いものはないだろう」って言ったんだ。それを聞いて、「ああ、そのとおりだな。もう少し頑張ってみよう」って思って、思いとどまったんだ。あのときはもうひとりの自分に感謝したね(笑)。

 なんとか1年間はもったんだけど、写真は全然ダメだったから、2年目は別のことをやろうと映像クラスへ行ったんだよね。そしたらこれがハマったんだ。

 映像ってひとりじゃ作れないじゃない? 脚本、監督、カメラ、役者とか、みんなでやる共同作業に喜びを感じるようになったんだよね。確かに内気な性格だから最初はイヤだった。5、6人のグループ作ってさあヤレって言われてやっぱりイヤだった。でもさ、グループで映画撮らなきゃダメってなればイヤでも話さざるをえないでしょ。自分のことを。そうやって話してしまえばみんな自分を受け入れてくれるじゃない。自分も最初は怖がってしゃべれないけれど、話してしまえば友達になっちゃったんだよね。そうすると学校で自分の居場所ができちゃった。楽しくなっちゃったんだよ、2年目は。

自分の居場所を見つけた吉岡さんは意欲的に映像作品を制作。その作品はすべてA評価をとり、その年の卒業生総代に選ばれた。しかし卒業後は映像の道ではなく、海外へ活路を求めた。
演劇か海外か
 

 確かに映画は作ってておもしろかったし、成績もよかったんだけど、映画業界にはそう簡単に就職できなかったんだよ。当時、映画産業はものすごい斜陽の時期で、潰れてく会社ばかり。人を雇うどころじゃない。だから就職なんて考えなかった。

 で、今後について、2つのことを考えた。まずひとつが演劇の道。オレ、そのとき言葉で表現することがすごく苦手だったから、身体や感覚で表現したいという欲望があった。そんな自分には役者が合ってるんじゃないかと思ってたの。

 もうひとつは海外に行くってこと。日本がイヤだったから逃げ出したかっただけ。そのころから日本での生きにくさってのを感じてたんだよね。オレ、日本ではイジメられてきてたから、そんな日本を好きになれないよ。東京の二年間もイヤだった。人間がイヤだったね。だから青年海外協力隊の募集を見つけて応募したんだよ。だから発展途上国の人を助けるためにとかっていうボランティアの精神なんて微塵もなかったね。

 応募したのは、エチオピアの国営テレビ局のテレビフィルム編集。これなら今まで専門学校で勉強してきたことが生かせるしね。でも英語が全然ダメだったから、全然受かると思ってなかった。倍率も4倍でライバルに電通の人がいてね。こりゃ絶対受からないって思ったんだよ。でもなぜか受かっちゃった。それだけにうれしくてしょうがなかったね。そしたらソッチに行っちゃうよね(笑)。

 あの時代は大らかというか……。技術面接はNHKの人が来ていたんだけど「フィルム編集のとき必要なものは?」って聞くんだよ。答えは7つあるんだけど3つくらいしかわからない。すると身ぶり手ぶりで教えてくれるんだよ。「コレがあるだろ」「ああ、ありましたね」みたいな(笑)。いい加減な試験だった。

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 でも作文はほめられたかな。「発展途上国の人にオレはズボンを履かせたくない」っていう作文を書いたの。つまりズボンっていうのはヨーロッパっていうか先進国のモノでしょ。だから「押しつけはいけない」っていうことを書いたんだ。それは「協力隊」の精神と合っていたんだよ。

 現地に派遣される前に合宿所に入るんだけど、ある日教官に呼ばれてさ。派遣先の仕事は元々オレがやりたかったテレビフィルムの編集の仕事じゃなくて、カメラとかの器材修理だっていうんだよ。これ、話が全然違うじゃない。さらに、「現地へ行ったとしても仕事はないと思ってくれ。自分の道は自分で切り開くしかない」だからね。ほんといい加減だよね(笑)。「今さらカンベンしてよ」って思ったけど、ここまできたらもうあとへは引けないから「行きます」ってその場で返事をしたんだよ。

初めての海外、初めての仕事が未知の国、エチオピア。しかも仕事は自分で見つけるしかない。多くの不安を抱えての出発だったが、しかし、このエチオピアでの経験がその後の吉岡さんの運命を変えることになる。
青年海外協力隊でエチオピアヘ
 

 出発するときは2年間の任期を無事全うできる自信もまるでなかった。「もう日本には帰ってこられないんだろうな。エチオピアで野垂れ死ぬんだろうな」ってちょっと悲壮感みたいなものを感じてたな……。

 羽田から飛行機が飛び立つときの情景まで覚えてるよ。羽田から飛行機がこう……羽田だったから、あの頃は。そんなに大きな飛行機じゃなくてね。ジャンボなんてない時代だから。オレそのとき初めて飛行機に乗ったんだ。それで離陸すると窓からガーッと京浜工業地帯が斜めに見えてさ。今でも覚えてるよ……。それを見ながらオレはもう日本に帰ってこないんだ……って。

 それで飛行機の中で胃けいれん起こしたんだよね(笑)。すっげえ緊張してたんだろうなぁ。エチオピアに着くまで何も食えなくてね。着いても寝たきり。向こうに調整員ってのがいるんだけど、その調整員の家に泊めてもらっておかゆとか作ってもらったりして。2、3日寝たきりだった。

 治ってからもオレができる仕事、ないからね。しばらくは居場所がなくてつらかったよ。机はあるんだけど、なにもやることがなくてさ。言葉も分からんしね。周りの人たちは、「なんでコイツ、ここにいるんだろう」って目で見るし。

 日本に帰ろうと思わなかったかって? いや、それは思わなかったね。そもそも最初から帰るなんて選択肢はなかった。国の事業だから途中から簡単に帰れないから。苦しいといえば苦しいんだけど、日本と違ってアフリカはアバウトな世界だから、誰もそんなにキツく言うわけじゃないし、誰もオレに期待していないじゃない。ある意味。

 だから仕事がなかった3カ月間、英語と現地語を勉強したんだよ。着いた瞬間から全然言葉が通じなかったからさ。こんなんで仕事なんてできるかって。ギブアップだよ、もう(笑)。だから、これは言葉を覚えるしかないんだって思うじゃん。そうしないと何も始まらないと思ったんだよ。ちょっとずつ現地の言葉を覚えて、話しかけるようにしたら、エチオピアの人も話しかけてくるようになって。言葉を覚えると人の中へ入っていけるよね。確実に、覚える分だけ入っていける。

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 で、ある日スチールカメラ撮影の仕事が舞い込んできた。いつも一眼レフのカメラをぶら下げてたんだけど、ある日プロデューサーが「お前いいカメラ持ってるな。じゃあ撮ってみるか?」って話しかけてきたんだよ。エチオピアでは一眼レフのカメラ持ってるだけでプロって見られるから。もちろん「やる!」って即座に答えて撮影したんだよ。

 そしたらオレの撮った写真を見てみんなびっくりしてさ。「すごい! おまえうまいな!」って。そこから仕事が舞い込むようになったんだよ。

 だから、どんなに困難な状況下におかれても、できることは必ずあるから、それをやるだけなんだよね。自分に今できることを見つけてやるっていう、ただそれだけの話だよ。

ある程度言葉が通じるようになり、写真の腕も認められ、徐々にスタッフとの間に信頼関係が築けてきた──。精神的な余裕が出てきた吉岡さんはテレビ局のマネージャーに「映像を撮らせてくれ」と交渉。すると快諾。撮った映像はまたもや大絶賛。以後、映像の仕事も増えていった。しかしいいことばかりではなかった。
エチオピア人との戦い
 

 仕事が増えたのはいいけど、今度は元々いたエチオピア人のカメラマンからの妬みを買っちゃった。妬んでオレのカメラやフィルムを隠したり、鍵をかけて仕事部屋に入れなくしたり、色んな意地悪をされた。彼らにとってオレは脅威になったんだよ。

 でもオレも黙ってなかったよ。こっちも必死だから。もうケンカだよ。戦いだよ。やってるうちにオレも戦い方、ケンカする言葉も覚えてくるからね。「お前らナメるんじゃねぇぞ」みたいなね。「ここはケンカするときだ」っていうのがわかってきて初めてその国に溶け込めたといえるんじゃないかな。遠慮してるとケンカなんてできないじゃない。

 でも戦い疲れて入院しちゃったの。肝炎で。ほんとに疲れちゃって。病院のベッドの白い天井を見上げながら、「あ〜このままオレは死んでいくんだな〜」なんて思ってね。でも不思議と悲壮感や絶望感はなかった。でも点滴打ったらケロっと治っちゃった。人間、そう簡単には死なないよね。

 倒れちゃったのは、精神的につらかったからっていうのもあると思うよ。やっぱりね、戦いつつも自分の中でも葛藤があったの。オレは協力隊としてエチオピアに来てるのに、彼らの仕事を横取りしてるだけなんじゃないかってね。自分はボランティア失格だなんて思ったしね。

 でも一方で失格でもいいやって思った。失格でも生きていけるし。人間なんてそんな強いやつばかりじゃないしってね。

 だから自分のボランテア活動に関して最後の報告書にこう書いたんだ。「自分はボランティア精神を捨てることでこの国に溶け込んでいった。ボランティア精神はエチオピアにとって異文化である。だからこの異文化を捨てた。捨てることによってオレはエチオピアに入っていった。彼らと真正面から戦った」と。ある意味、協力隊のあり方そのものを否定するような内容だけど、別段上からクレームはこなかったね。

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 でもやっぱり一番つらかったのは、退院して会社に戻ると、それまでいろいろ教えていた弟子みたいなヤツがオレのポジションを取ってたということね。そのときの彼の言いぐさが「自分は吉岡に教わってるから彼と同じようにできる。だから同じポジションを取ってもいい」だった。そんときはもう本気で腹が立ったよ!エチオピア人を皆殺しにしてやりたいって思ったほどね。これがエチオピア人の本性かって。これじゃ国が発展するわけないと思ったよ。

 これはオレの弟子だけじゃなくて、エチオピアでは一般的な考え方らしいんだ。義理も人情もないよね。こういうことでも日本がなぜ発展したかわかるよね。日本人はそういうことしないじゃん。教わった師匠を大事にするでしょ。

 そんなわけで終盤は嫌なこともあったんだけど、一方でいいこともあった。帰国する直前、ある報道カメラマンと出会ったんだ。この人からの一言に大きなショックを受けた。ハンマーで頭をぶん殴られた感じがしたね。あの一言でオレの人生、変わったんだよね。

 

無事2年間の任期を終え、帰国した吉岡さん。しかし故郷で待っていたのは「絶望」でした──。

次週は吉岡さんの人生に絶大な影響を及ぼしたあるカメラマンとの出会い、2度目のエチオピア、そして挫折と妥協の就職活動について熱く語っていただきます。

 
2005.12.5リリース 1 放浪の始まりは 青年海外協力隊
2005.12.12リリース 2 人生を変えた 二度目のエチオピア
NEW!2005.12.19リリース 3 カンボジアで記者転向を決意
NEW!2005.12.26リリース 4 サラリーマン・ジャーナリズムを追求

プロフィール
 
よしおか いつお

1952年、愛媛県生まれ。高校卒業後、写真専門学校で写真と映像を2年間勉強。

卒業後、青年海外協力隊に入隊、エチオピアで2年間活動。

帰国後CM制作会社に入社するも1年で退職。再びエチオピアへ。

1年後帰国、さまざまなアルバイトを経験しながら数10社の求人に応募。旅行専門雑誌の編集部員としてある出版社に就職。

青年海外協力隊事務局から紹介された中日新聞のカメラマン募集に応募して内定。報道カメラマンとしてイベント、国内の事故、事件の取材からイラク、アフガン、カンボジアなどの紛争地を駆け回る戦場カメラマンとして活躍。2年連続で日本写真家協会賞を受賞。

43歳で記者に転向。地方記者、芸能記者を経験し、現在は東京新聞社会部記者。首都圏の話題を発掘し、カラーで紹介する東京新聞の「売り物」ページである「TOKYO発」担当。「首都圏の話題を発掘」する企画ページにも関わらずイラク、パナマ、コスタリカなどを取材するなど、その活動はまさにボーダレス。部署、国境を軽々越え、興味の赴くままに動くフットワークの軽さはいまだ健在。

会社員としての仕事以外にも作品多数。支局時代に書いた『漂泊のルワンダ』が開高健奨励賞を受賞。そのほか『人質—イラク人質事件の嘘と実』『いきあたりバッチリ』『厳戒下のカンボジアを行く』『イスラム銭湯記—お風呂から眺めたアフガン、NY、イラク戦争』など10冊の著作に加え、ドキュメンタリー映画『笑うイラク魂』『戦場の夏休み』『人質』なども製作している。

しかし本人は「典型的なサラリーマン」と語る53歳。

 
 
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報道界のバガボンド・吉岡逸夫さんが「書かずに死ねるか!」との思いで書いた半生記。このインタビューでは書ききれず泣く泣くボツにした、吉岡家の壮絶話、世界をまたにかけた就職活動話、コロンビア大学大学院留学時代の話、戦場カメラマン時代の話、そして結婚、離婚、家族の話など、波乱万丈のおもしろエピソード満載の一冊。「落ちこぼれでもここまでできる」、「信念は曲げてもいい」、「強くなくても生きていける」、「『思えばかなう』なんて大ウソだ」など珠玉の名言多数。

 
 
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