仕事が増えたのはいいけど、今度は元々いたエチオピア人のカメラマンからの妬みを買っちゃった。妬んでオレのカメラやフィルムを隠したり、鍵をかけて仕事部屋に入れなくしたり、色んな意地悪をされた。彼らにとってオレは脅威になったんだよ。
でもオレも黙ってなかったよ。こっちも必死だから。もうケンカだよ。戦いだよ。やってるうちにオレも戦い方、ケンカする言葉も覚えてくるからね。「お前らナメるんじゃねぇぞ」みたいなね。「ここはケンカするときだ」っていうのがわかってきて初めてその国に溶け込めたといえるんじゃないかな。遠慮してるとケンカなんてできないじゃない。
でも戦い疲れて入院しちゃったの。肝炎で。ほんとに疲れちゃって。病院のベッドの白い天井を見上げながら、「あ〜このままオレは死んでいくんだな〜」なんて思ってね。でも不思議と悲壮感や絶望感はなかった。でも点滴打ったらケロっと治っちゃった。人間、そう簡単には死なないよね。
倒れちゃったのは、精神的につらかったからっていうのもあると思うよ。やっぱりね、戦いつつも自分の中でも葛藤があったの。オレは協力隊としてエチオピアに来てるのに、彼らの仕事を横取りしてるだけなんじゃないかってね。自分はボランティア失格だなんて思ったしね。
でも一方で失格でもいいやって思った。失格でも生きていけるし。人間なんてそんな強いやつばかりじゃないしってね。
だから自分のボランテア活動に関して最後の報告書にこう書いたんだ。「自分はボランティア精神を捨てることでこの国に溶け込んでいった。ボランティア精神はエチオピアにとって異文化である。だからこの異文化を捨てた。捨てることによってオレはエチオピアに入っていった。彼らと真正面から戦った」と。ある意味、協力隊のあり方そのものを否定するような内容だけど、別段上からクレームはこなかったね。
でもやっぱり一番つらかったのは、退院して会社に戻ると、それまでいろいろ教えていた弟子みたいなヤツがオレのポジションを取ってたということね。そのときの彼の言いぐさが「自分は吉岡に教わってるから彼と同じようにできる。だから同じポジションを取ってもいい」だった。そんときはもう本気で腹が立ったよ!エチオピア人を皆殺しにしてやりたいって思ったほどね。これがエチオピア人の本性かって。これじゃ国が発展するわけないと思ったよ。
これはオレの弟子だけじゃなくて、エチオピアでは一般的な考え方らしいんだ。義理も人情もないよね。こういうことでも日本がなぜ発展したかわかるよね。日本人はそういうことしないじゃん。教わった師匠を大事にするでしょ。
そんなわけで終盤は嫌なこともあったんだけど、一方でいいこともあった。帰国する直前、ある報道カメラマンと出会ったんだ。この人からの一言に大きなショックを受けた。ハンマーで頭をぶん殴られた感じがしたね。あの一言でオレの人生、変わったんだよね。
|