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国家ほど信用できないものはない──戦争で思い知らされたのが原点 ジャーナリストになって国の暴走を止めてやる たまらなく使命感に燃えていた
1965年に創刊された『話の特集』は、新しい時代のエンターテイメント雑誌として特に若者から熱狂的な支持を集めた。その編集長を30年の長きにわたって務めたのが矢崎泰久さん。現在も反権力・反権威を標榜するジャーナリストとして奮闘中の矢崎さんの仕事観、人生観に迫った。
『話の特集』元編集長、ジャーナリスト 矢崎泰久
 
第二次世界大戦の敗戦を目前に、日本軍の実際の戦況はアメリカ軍の圧倒的物量の前に絶対的劣勢を強いられていた。しかし報道管制と政府によるアジテーションは敗戦直前まで続き、一般人は日本軍が善戦していると信じ込まされていた。矢崎さんは父の仕事の関係で、普段から海軍将校たちと接する機会が多く、もちろん彼らは戦況をすべて把握していて「この戦争は負ける」などと話していた。それを聞いた少年時代の矢崎さんの心は激しく動揺する。信じられない、どっちが本当なんだ……しかし大人たちの裏切りはそれだけではなかった。
 
戦争ですべての大人、国家が信じられなくなった
 

 第二次世界大戦中、私は「はやく大人になって戦争に行きたい」と願っていた熱い軍国少年でした。本土決戦のために「鬼畜米英!」って叫びながら竹やりでわら人形を突いていましたから。気合十分でいたのですが、しかし、突然の終戦宣言。1945年 8月15日正午の玉音放送は今でも忘れられません。

 
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 でももっとショックだったのが、多くの大人が戦争に負けたとたんに手のひら返すような行動を取ったこと。昨日まで「徹底抗戦!」「一億玉砕!」と叫んでいた大人が、とたんにアメリカに媚びへつらうような行動に出たんです。例えば教育の現場では、子供に教科書のあちこちを強制的に塗りつぶさせたり。じゃあこれまで毎日のように殴られながら教え込まれてきたものは一体なんだったんだって思いますよね。でもその疑問には教師は一切答えない。あまりの豹変ぶりにもうパニックでした。

 こういった、今まで信じていたものすべてを否定するような教育が始まって、戦争中、大人たちは徹底的にウソをついていたということが初めて分かったんです。当時中学二年生でした。

 

 さらに高校生のときに起こったレッドパージ(注1)でもさらに国への不信感は高まりました。要するにGHQと天皇が合体して日本の国体を守るというだけの理由でまたインチキをやったと。
(注1 日本の敗戦によって共産党員が開放され、特に教職の場に増加。しかしその動きが活発化してくると、政府=アメリカは一転して取締りを強化)

 この二重のインチキにうんざりして、もう国家は信用できないと心に刻んだわけです。この思想的原体験がその後の私の人生を決定付けたといっても過言ではないですね。

 国に裏切られたというショックから立ち直るのにかなり時間がかかりました。なにしろ10代の一番多感な時期ですからね。自然とサルトル、カミュ、ボーボワール、ドストエフスキーなど、命を賭けて国家に対するレジスタンス活動を繰り広げる哲学者、作家、学生に傾倒していきました。彼らからは多大なる影響を受けましたね。結果「実存主義的リベラリズム」つまり国家権力を否定し、個人主体の独自性を追求するというものが私の基本的な思想になっていったんです。これはジャーナリズムの道に進んだことと密接に関係があるし、未だにこだわり続けている思想でもあります。

 でもいきなりジャーナリストを目指したわけではありません。そこに行き着くまでにはいろいろとフラフラしてしまいました(笑)。

最初の夢は外交官。きかっけは駆け落ち
 
 まず最初になりたかったのは外交官。動機ですか? これが本当にくだらない理由でね。高校三年生のときに同級生の女の子と駆け落ちしたんだけど、すぐに彼女の親に連れ戻されました。その親が外交官だったんです。そのとき、すごく悔しい思いをしてね。「ちきちょう! 俺も外交官になって彼女の親を見返してやる!」なんて思っちゃったんだよね。ホントにふざけた理由だよね(笑)。

 でも意外にそのモチベーションは続いて、大学在学中に外交官の試験を受けたんですよ。でも一次試験の筆記テストは通るんだけど、二次の外国語による集団討論がダメでね。英語が苦手だったから。何かしゃべろうと思ったら、すぐほかのヤツがしゃべっちゃう。それで2回受けて2回とも落ちちゃった。それでこれはダメだと。俺には向いてないと思ってあきらめちゃったんです。これが最初の挫折かな。

 

 次に目指したのが政治家。国家は信じてないけど、元々世の中の人びとのために働きたいという思いが強かったんですね。国民を裏切らない、搾取しない国を作るには自分が政治の世界に入るしかないと思って。戦争によるトラウマが根深かったから、自然な流れで「ゆがんだ日本(政治)を立て直したい!」と考えたんでしょうね。

 でもいろいろと考えていくうちに、ジャーナリストとして働くことの方が大切だと思うようになりました。国はジャーナリズムがしっかりしていないとダメになりますからね。メディアによる辛らつな報道がなくなれば政府は汚職の温床となるし、いつあの忌まわしくバカバカしい戦争を繰り返さないとも限らない。間違った方向へ行かないように国を監視する機能を持つのはマスメディア、それもジャーナリストしかないと思ったんです。そう考えるとたまらなく使命感に燃えました。一方で親が雑誌の編集者をやっていたからわかるけど、ジャーナリズムであっても雑誌(の仕事)だけはイヤだった。なにしろ父はほとんど家に帰ってきませんでしたからね。家庭を持ったらそんなことではイケナイよね。

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まずは新聞記者として職業人としてのスタートを切った矢崎さん。毛色の全く違う2社でスクープを連発し、業界にその名をとどろかす。しかし社会正義のためにではない。モチベーションの源泉は、一か八か、おもしろいことをやってみんなを驚かせたいという気持ちの方が強かったようだ。
新聞記者からのスタート。スクープを連発
 
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 大学を出てすぐに日本経済新聞社に入って、社会部に配属されました。仕事はおもしろかったのですが、会社にたてつくことばっかりやってたんで2〜3年でクビになっちゃった。でもすぐ内外タイムスという夕刊紙から声が掛かって転職したんです。大新聞のように偉くなっても天下りはないし、政治部や経済部などのエリートと違って雑草のような社会部記者としての道でしたけど、後で考えれば良い選択でした。

 社会部の記者は自分でテーマを設定して、どこへでも出かけて自分の視点で書くことができるんです。ひとつの事件をどういう視点で書くかは記者によって違うし、それが誌面に特色を出してました。細かい制約がないから、なんとかして読みごたえのある記事を書こうと頑張れたんですね。

 

 内外タイムスでも忘れられない仕事をいくつかありました。特に松川事件(注2)は印象深い担当事件でしたね。裁判では、最高裁の差戻審判決、つまり検察側の上告が棄却されました。その裁判は仙台高裁で行われたので地元の新聞が仕切って記者会見が開かれたんですけど、内外タイムスは記者クラブに入っていなかったから出席させてもらえなかったんです。そこで私は裁判長の家を訪ねることにしました。実際に訪問したら裁判長は留守だったんですけど、御家族の好意で御飯や風呂までいただきながら待たせてもらいました。やがて裁判長は酒が入っているのか上機嫌で帰ってきたんです。その瞬間、翌日有罪を宣告する人間の表情じゃないと思いましたね。そこで「全員無罪」という原稿を書いて会社へ送ったんです。辞表と一緒に(笑)。

 判決は翌日の午前11時に出るので、その日の夕刊にはどんなに急いでも早版に載らないんです。号外を発行しても正午過ぎになります。ところがその日、内外タイムスだけは号外よりも早く、全員無罪という判決の記事を掲載した新聞を販売できた。当たり前ですよね、前の日に記事を書いて入稿してるんだから(笑)。でも知らない人からみたら、スクープ中のスクープですよ。どの大新聞より早く記事が載ってるんだから。まぁ、こんなのは反則ですけどね。私が博打うちでなかったらやりませんよ。判決を待たずに記事を書くなんて。あと、大新聞なら絶対に許してくれないでしょうね。内外だからできたんだと思います。

(注2 '49年8月17日に東北本線松川駅−金谷川駅間のカーブで何者かがレールを細工して上り列車が脱線転覆。乗務員3人が死亡。後に罪もない容疑者が自白を強要されたことがわかり、歴史に残るえん罪事件と言われた)

 「内外だから」ということでいえば、警察まわりをしていると「アンタんとこ向けの事件があるよ」なんて声をかけられることが多かったんですよ。私が内外タイムスの記者だから大新聞が書かない痴情、怨恨、エログロ、ナンセンスが記事になるってことを刑事も知ってるからね。でもそういうところから大新聞も悔しがる特ダネを拾うこともありましたよ。大事なのは、そのネタを仕入れてからどうするか。事件が起きたとき警察にとって初動捜査が大切なように、記者にとっても初動が肝心。事件の当事者や関係者の話は他社が聞く前に聞くことが大切なんです。取材の相手は芝居の台詞を読むわけじゃないから一度しゃべってしまったことは二度目からは正確でなくなってしまう。事実はひとつだから生の言葉の大切さを学びました。

仕事は順調だったが、私生活は自由奔放そのもの。収入も今はやりの副業で月給をはるかにしのぐ収入を得ていた。稼ぎ方も型破りだったが、使い方も派手だった。稼いだ金はすべて博打と女に消えていった。しかしそれでも幸せだった。「若い頃はそれが身についたんですね」と矢崎さんは笑う。
博打と女にすべてつぎ込む
 

 新聞記者をやってる頃はひと月に1回しか会社へ行かないなんてことも多かったですね。そもそも新聞記者は会社にいてはいけないんです。事件がない日でも何かネタはないかと外に出て動いてないと。ちなみに私は記者クラブなどで麻雀をやってることが多かったですが(笑)。事件が起こると取材したその場で原稿書くのが当たり前だったし、会社は給料日以外関係ないんですね。オマケに前借りするから、やがて給料日すら行かなくなってしまった(笑)。

 当時若かったけど、結構お金を稼いでたんですよ。新聞記者の仕事の他に『女性自身』などの週刊誌で原稿を書くアルバイトもやっていたんだけど、そのギャラがまた良くてね。アルバイトだけで月給の10倍くらいは稼いでました。それでもすぐなくなっちゃうんだよね(笑)。収入のほとんどは博打に注ぎ込んでましたから。あと女ね。私は昔の人間だから女にお金は使わせないんです。必ず自分がすべて払う。でも博打うちだからオケラになったら女に借りるんですけどね(笑)。女と別れるときもお金が必要だし……。私は絶えず結婚してましたから、お金はいくらあっても足らなかったなぁ(笑)。

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次回はいよいよ日本に新しい時代のエンターテインメントを吹き込んだ総合誌『話の特集』について語っていただきます。反体制・反権力・反権威を標榜する矢崎編集長の周りには、和田誠、横尾忠則、寺山修司、篠山紀信、小松左京など、まさにキラ星のような若き才能が集い、編集部はまさにクリエイターの梁山泊と化していました。そんな中で矢崎さんが決して譲らなかったこだわりとは……?
 
2005.10.3リリース 軍国少年からジャーナリストへ
2005.10.10リリース ヤクザに殺されかけても辞めなかった
NEW! 2005.10.17リリース 「仕事」とは「遊び」なり

プロフィール
 

矢崎 泰久
(やざき・やすひさ)
'33年(昭和8年)東京生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科に学び、日本経済新聞社に入社。その後内外タイムスに移り社会部記者としてキャリアを積む。'65年に父が経営する出版社、日本社から「話の特集」を創刊。以来、'95年の休刊まで編集長を務める。また映画、テレビ、舞台などのプロデューサーとしても数多く手腕をふるった。現在はフリーのジャーナリスト。『月刊現代』『週刊金曜日』などで連載企画をもつ。正しい歴史を学び、現在おこっている世の中の真実を見据える「学校ごっこ」講師でもある。

学校ごっこ
今年で4年目(8期/'05年9月〜'06年1月)の本当の歴史を学習する講座。「学校ごっこ」の特徴は"国家権力の視点ではなく、人権すなわち個々人の視点を大切に歴史を学ぶ"ということ。4つの講座のうち、矢崎さんは「歴史から考えるジャーナリズム」を担当。本当のジャーナリズムとは何か、その歴史を学び、語り継ぎ、その上に自分達で歴史を作っていく、という信条で開催。もちろん"遊びの精神を忘れない"ことも大切にしている。

 
 
おすすめ!
 

『話の特集 2005 話の特集 創刊40周年記念 』(WAVE出版)
『話の特集 2005
話の特集
創刊40周年記念 』

(WAVE出版)

創刊から矢崎さんが編集長を務める月刊総合誌の40周年記念号にして10年ぶりの「話の特集」になる。最近の商業主義偏重な世間の雑誌に憂いを感じた矢崎さんが一念発起して復刊させた。デザイン面で協力した和田誠氏をはじめ、創刊当時から関わっている執筆陣、カメラマン、イラストレーターを中心にそれぞれのテーマで様々な作品を寄せ、濃度の高い一冊になっている。篠山紀信、立木義浩が名を列ねる写真のページ、黒田征太郎のイラストレーション「PIKADON」、そして女優・冨士眞奈美の小説や指揮者・岩城宏之によるエッセイなど執筆者選びと意外性のある執筆テーマという"「話の特集」らしさ"は変わらない。立川談志、椎名誠、岸田今日子他、計14名が寄稿したジョーク・フェスティバルもバラエティ豊かで楽しく読める。


『「話の特集」と仲間たち 』(矢崎泰久/新潮社)
『「話の特集」と仲間たち 』
(矢崎泰久/新潮社)

'65年(昭和40年)に創刊した日本初のカルチャー総合誌「話の特集」。リベラルな思考を根底にエンターテイメントの本質を追求した。矢崎さんの下には、和田誠、横尾忠則、寺山修二、五木寛之など、今見返せばきら星のごとき才能が終結。面子の豪華さだけでなく、当時の雑誌的セオリーをひっくり返す斬新な誌面が人気となり、雑誌文化に大きな影響を与えた。そんな「話の特集」の黎明期に関わった人々とのエピソードに加え、新聞記者から雑誌編集長、さらに出版社社長まで兼任していく矢崎さんの雑誌人生的自伝でもある。

 
 
お知らせ
 
魂の仕事人 書籍化決!2008.7.14発売 河出書房新社 定価1,470円(本体1,400円)

業界の常識を覆し、自分の信念を曲げることなく逆境から這い上がってきた者たち。「どんな苦難も、自らの力に変えることができる」。彼らの猛烈な仕事ぶりが、そのことを教えてくれる。突破口を見つけたい、全ての仕事人必読。
●河出書房新社

 
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